K007:大彦命 | 膳 羽室 | KW01:膳 羽室 | ● |
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膳 長野 | 膳 斑鳩 |
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『日本書紀』巻第十四によると、推定458年、母親である皇太后の忍坂大中姫の勧めで、雄略天皇は宍人部を設置することになった。その際に、皇太后が第一番目に推薦したのが膳長野である。 |
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇8年(464年)、身狭村主青,檜隈民使博徳は呉国に派遣された。派遣の目的は、天皇が即位してから新羅が苞苴を8年間奉らなかったことを責めたものであった。 |
膳 大麻呂 | 膳 傾子 |
『日本書紀』巻第十八によると、内膳卿の大麻呂は勅命を受け、使者を派遣し、伊甚に珠(真珠)を求めたが、伊甚国造らは京へ出てくるのが遅くなり、時を踰えるまでに進上しなかった。大麻呂は激怒し、国造らを捕らえて縛り、その訳を問い糺したという。その剣幕に畏れ戦いた国造の伊甚稚子らは後宮の寝殿に逃げ込み、皇后の春日山田皇女を驚かせ、気絶させてしまった。そのため、稚子らは重い罪に問われた。そして、伊甚屯倉を皇后のために寄進するという形でけりがついた、という。 |
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇31年4月(推定570年)、高句麗の使者が越国に初めて漂着した際に、饗応のために派遣された。この時、高句麗の大使は膳臣が皇華の使であることを知り、越の国の地方豪族である「道君」を詰問し、「お前は膳臣を拝んだので、役人ではないとわかった。私を騙して取り立てた調を速やかに返還せよ」と言った。これを聞いた傾子は、その調を捜し出して大使に返還させ、京へもどり復命した、とある。 |
膳 巴提便 | 膳 菩岐岐美郎女 |
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇6年3月(推定545年)、百済に派遣されたとある。この時、妻子同伴で半島へ向かっている。そのことが、以下の悲劇の原因となった。 |
推古天皇6年(598年)聖徳太子の妃になる。四男四女を生んだが、そのうちの舂米女王は異母兄・山背大兄王の妃になる。聖徳太子は愛する膳部菩岐々美郎女に「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝わる。推古天皇30年(622年)聖徳太子と共に病となり陰暦2月21日に死去。翌2月22日に太子も死去する。聖徳太子の墓所である磯長陵に合葬された。 |
膳 摩漏 | 高橋笠間 |
『日本書紀』によれば、天武天皇11年(682年)7月9日に、小錦中の膳摩漏が病となり、天皇は草壁皇子と高市皇子を遣わして見舞いさせたが18日に摩漏は死去した。天皇は驚き、とても悲しんだ。21日に壬申の年の功によって、天皇は大紫の位と禄を摩漏に贈り、皇后(後の持統天皇)も物を贈った。大紫は壬申の功臣の中でも高位だが、書紀が壬申の乱を述べるくだりに摩漏の名は見えないので、どのような活躍をしたかはわからない。 |
文武天皇5年(701年)正月に遣唐大使に任ぜられ、同年唐に向けて出航するも風浪が激しく渡海できなかった。翌大宝2年(702年)6月に遣唐執節使・粟田真人らは改めて出航し渡唐するが、笠間は同行せずに同年8月になって造大安寺使に任ぜられている。大宝3年(703年)持統上皇の葬儀において造御竈副司を務めた。 |
高橋安麻呂 | |
養老2年(718年)従五位下に叙爵し、養老4年(720年)宮内少輔に任ぜられる。 |