戦国時代の明珍家17代に当たる甲冑師。初め「安家」と名乗った。 武田信玄が愛用したと伝わる諏訪の法性兜は信家の作とされる。兜についた白い毛は中国産のヤクの毛とされ、「白熊(はくま)の兜」とも呼ばれた。武田家を守る神器とされた。法性兜とされるものは複数あるが、諏訪大社神長官の守矢家に伝わるものが諏訪湖博物館に展示されている。明珍信家の銘が刻まれており、信家の「信」は、信玄から一字を授かったものではないかと言われている。ただし、諏訪法性兜に刻まれた明珍信家による銘には文永5年(1268年)8月とあり、信家が活躍した時代とは200年以上差がある。
22代・明珍義時は、江戸幕府の大老である酒井忠清にお抱えの甲冑師として仕え、上州厩橋に住む。