<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI06:紀 長谷雄  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 麻呂 ― 紀 長谷雄 ― 寺沢広正 KI45:寺沢広正

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寺沢広高 寺沢堅高

 はじめ、父・広政と共に豊臣秀吉に仕えた。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行にまで出世した。奉行時代の文禄3年(1594年)にキリシタンに改宗したが、慶長2年(1597年)の日本二十六聖人処刑を契機に棄教。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や兵力輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。
 秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に関ヶ原の戦功によって天草4万石を加増された。豊臣政権の公儀権力が徳川に移ってからは「秀吉の取次ぎ」から「家康の取次ぎ」として公的地位を新たにした。関ヶ原の戦い以降も実権を握った家康と西軍だった島津氏との戦後処理の交渉を仲介するなどしたが、時と共に取次の役割は家康の家臣に委ねられた結果、権力を失った。
 唐津城を築城し、天草の飛び地を含めると12万3千石を領する大名となり、天草領を治めるために富岡城を築くなどし、城代・代官を派遣して統治した。唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。他方、当初はキリシタンの弾圧を公然とは行っていなかったが、慶長19年(1614年)の禁教令以後、厳しく棄教を迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになった。
 寛永10年(1633年)死去、享年71。墓所は唐津市鏡の鏡神社境内にある。墓所は地元では志摩様として慕われ、毎年春、桜の花見の時期に小宴が催されてきた。
 若い頃、親友の安田国継と立身出世を夢見て、どちらかが国主になったら一方は10分の1の禄をもって家臣にしようと約束した。広高は秀吉、国継は明智光秀に仕え、光秀が本能寺の変を起こして織田信長を殺し、国継はその時に信長に手傷を負わせたために以後は転落する人生を送ったが、広高は順調に出世し、8万石の国主時代に10分の1の8,000石で国継を召し抱えて約束を果たしたという。
 広高は江戸から帰国した際には国中の視察を怠らず、普請方に命じて水害や日照りに備えさせ、税金や労役で不正が無いように目を光らせた。唐津は畑が広く、麦がよく取れたので5月と6月は家中の食事は麦飯だったが、広高も麦飯を進んで食べた。また倹約に務めたが、これは優れた家臣を召し抱えるためであり、広高は技能優れた武士を愛した。広高時代の唐津藩には1000石取りの家臣が40人もおり、その士風を慕って集まる者も多かったという。

 元和8年(1622年)に兄の忠晴が早世したため嫡男となり、寛永10年(1633年)の父の死去により遺領を相続し2代藩主となった。
先代から続く天草地方のキリシタン弾圧を厳しくしたことで、寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発した。江戸に参勤中であった堅高はすぐさま帰国して幕府軍とともに乱の鎮圧にあたった。
 乱の終結後は失政の責を問われた。同じ乱の当事者であり当主が斬首された松倉家に比べれば軽い処分となり、天草領4万石を収公されたに留まったが、出仕も許されず、面目を喪って生き恥をさらす失意の日々を過ごし、正保4年(1647年)に江戸の海禅寺で自殺した。自殺の原因としては先の天草領没収による精神的動揺が考えられている。
 嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった。
 寛文11年(1671年)、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。