天文7年(1538年)、尾張国津島に生まれる。天正10年(1582年)には明智光秀に仕え、福知山城の城代として2,500石を賜る。同年、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃し、その後、山城国山崎で羽柴秀吉に敗れた。 高勝は大津に移り浅野長政に召し出され、長政の子・幸長の守役となる。文禄3年(1594年)甲斐国にて、2,500石を賜る。慶長元年(1596年)、浅野長政・幸長父子に仕え、浅野藩の草創に尽力した功績により浅野姓を許され浅野孫左ヱ門高勝を名乗る。 慶長2年(1597年)朝鮮に出兵。慶長5年(1600年)朝鮮で主君浅野幸長の命を守ったことにより加増され、5,000石となる。同年、関ヶ原の合戦では幸長に従って東軍に参加。 慶長18年(1613年)浅野孫左ヱ門高勝、京都に没す(76歳)。 子の高英が寛永14年(1641年)広島東城に配置され、10,000石となり、広島藩家老東城浅野家が誕生する。
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浅野懋績の6男として生まれ、広島藩家老・東城1万石領主の浅野道興の養子となる。養父の隠居に伴い、1869年(明治2年7月)家督を継承。1872年(明治5年)東上し慶應義塾へ入る。漢学を修め広島県御用掛。1874年(明治7年)以降、広島県十五等出仕,広島駅逓出張局長,広島郵便局長等を歴任。殖産興業に従事し授産士族の世話を務める。 1905年(明治38年)3月25日、貴族院男爵議員に選出され、1911年(明治44年)7月9日まで在任した。
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