百済王朝

KKR1:高句麗王朝1  百済王朝1 KDR1:百済王朝1

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温祚王 多婁王

 源流を扶余に求める神話を持ち、氏は扶余または余とする。
 北扶餘の古記によると、天帝が訖升骨城に降臨して都を定め、北夫餘を建国し自ら解慕漱を名乗って解を姓とした。以降、都を東夫餘に移し、その後、東明帝が北夫餘に続き卒本夫餘を建国し、高句麗の始祖となった。百済の初代王である温祚王は高句麗の東明帝(東明聖王)の子孫であり、高句麗の国姓である高氏から夫餘氏を名乗った。
 百済の始祖については、いくつかの系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるものとなっている。また、後に日本に渡来した百済系の人たちの間では、その始祖を都慕王(朱蒙)としていたとも伝わる。
 『三国史記』百済本紀には以下の様に記される。温祚の父・朱蒙は北扶余から逃れて卒本扶余に着き、扶余王の2番目の娘を娶る。その後、扶余王が亡くなり朱蒙が王位につき、長子の沸流と次子の温祚をもうける。しかし、朱蒙がかつて扶余にいたときの子(後の高句麗の第2代瑠璃明王)が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流,温祚はこの太子を恐れて、10人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。前18年、温祚は漢山(京畿道広州市)の地で慰礼城に都を置く。兄・沸流の一行はさらに海浜をめざした。温祚は初め10人の家臣に援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城に帰属し、百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた。系譜が扶余に連なるので、氏の名を扶余とした。なお、この記事の中にも分注として、朱蒙が卒本扶余に至った際に越郡の娘を得て2子をもうけたとする異説を載せている(省略)。このほかに、『隋書』百済伝などがある(省略)。
 建国の初めより東北辺に接する靺鞨に対する防衛の意識が強く、城柵を築いてこれに備えていた。靺鞨からは前後7回(一部、楽浪郡が靺鞨に命じたものもある)にわたる侵攻を受けたが、いずれも撃退している。特に前1年に侵攻を受けた際には、迎撃してその酋長の素牟を捕らえている。南方では馬韓との間に初めは親密な関係を保っていたが、瑞祥を得て馬韓・辰韓を併呑する気になり、後8年から後9年にかけて馬韓を急襲してこれを滅ぼした。後に後16年には馬韓の旧将が反乱を起こしたので王自ら討伐し、これを鎮圧した。北方では前15年に楽浪郡に使者を送って国交を開いたが、防備のための城柵を築いたことを咎められ、前11年7月には和親が失われた。
 このように北方・東北方の国防の観点から、前5年には都を漢水の南に移しており、漢水の西北に城郭を築いた。前2年には楽浪郡の侵攻を受けて、旧都の慰礼城を焼かれている。温祚王の一代を通じて、その領域は北は浿水(清川江)、東は走壌(江原道春川市)、西は黄海に至った(南は未詳)。
 在位46年にして、28年2月に死去した。『三国史記』には諱、諡、埋葬地についての記述は無い。後代の百済王には諱、諡の記事がみられるようになるが、埋葬地を記される百済王は一人としていない。 

 先王のときと同じく、即位当初から東北辺の靺鞨との戦いが続いた。初めのうち(30年,31年)はこれらを大いに殺したり捕虜にしたが、治世の中頃には攻め込まれるばかりとなり、56年には牛谷城を築いて備えることとした。一方、東方では63年には領域を娘子谷城(忠清北道清原郡)まで広げ、新羅に対して会盟を申し入れたが、受け容れられなかった。そこで64年、軍を派遣して新羅の蛙山城(忠清北道報恩郡)を攻撃したが、勝つことができず、南の方へ戦場を移し、狗壌城(忠清北道沃川郡)で新羅の兵を敗走させた。これ以後、蛙山城は新羅との係争地となり、互いに奪回を繰り返した。最終的には蛙山城を新羅に奪回されたまま、多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。
 33年には初めて稲田(日本で言うところの畑)を作らせたと記されている。朝鮮で稲作が普及するのは15世紀以降のことである。また、38年秋には、穀物の不作を理由として私酒造を禁じた、という記事もある。 

肖古王 古爾王

 遼東王・公孫度の娘を娶る。
 先代の蓋婁王の末年より新羅との交戦態勢に入っており、しばしば新羅と戦った。167年7月には新羅の西部辺境を襲って2城を奪ったが、翌8月には新羅は一吉飡(新羅の7等官)の興宣を派遣し、また阿達羅尼師今自らが漢水(漢江)まで親征してきた。このために肖古王は得たばかりの2城を新羅に返還した。170年にも新羅の辺境に侵攻し、その後も188年2月に母山城(母山城は忠清北道鎮川郡の大母山城に比定される説が有力であるが、陰城郡陰城邑や全羅南道南原市雲峰邑とする説もある)を攻め、189年7月には狗壌(忠清北道沃川郡)で戦って敗れ、死者500余人を出した。190年8月には円山郷(慶尚北道醴泉郡)を襲撃し、さらに進んで缶谷城(慶尚北道軍威郡岳渓面)を包囲した。このとき、新羅の将軍の金仇道を蛙山(忠清北道報恩郡)まで惹きつけて大いに打ち破った。204年7月には腰車城(忠清北道報恩郡懐南面)を攻略してこれを陥とし、城主の薛夫を殺した。新羅王(奈解尼師今)がこれに怒り、伊伐飡(新羅の1等官)の昔利音を将軍として送り、沙峴城(慶尚北道聞慶市籠岩面沙峴里?)まで攻めてきた。
 また、靺鞨とも度々戦い、210年10月には靺鞨が沙道城を攻めてきたが、このときは城門を焼かれただけに留まった。214年9月には真果に1千の兵を率いさせ、靺鞨の石門城(黄海北道瑞興郡の石門寺付近?)を奪った。しかし同年10月、靺鞨は騎馬隊を率いて述水(京畿道驪州郡)まで攻めてきた。この直後、肖古王は死去した。在位49年であり、死因の詳細については不明である。
 『古事記』では、応神天皇の治世に百済王・照古王の名が記されている。照古王は馬1つがいと論語などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師と和邇吉師を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王が肖古王に比定されているが、年代から第13代の近肖古王とする説もある。 

 234年に第6代の仇首王が死去した際に、その長子の沙伴王がいったん王位についたが、幼少であったため政務を執ることができず、肖古王の王弟の古尓王が王位を継いだ。
 たびたび新羅と争い、また使者を送って和親を果たそうとした。新羅との交戦の中心となったのは、槐谷(忠清北道槐山郡),烽山(慶尚北道栄州市)であった。246年8月に魏の毌丘倹が高句麗に攻め入った際には、高句麗の楽浪郡の辺境に攻め入って住民を略奪させたが、魏軍が矛先を転じるのを恐れて略奪した人民を放棄した。また、靺鞨からは258年に酋長の羅渇の供物献上を受け入れ、その使者を厚く労うという一件もあった。
 内政面においては260年のこととして、佐平と15等からなる官制を整備したとされている。また、262年には官人の収賄者や盗人を取り締まるために、得たものの三倍の徴収と終身禁固刑とを罰とする布告をした。
 286年11月に在位53年にして薨去した。埋葬地は伝わっていない。

 

近肖古王 辰斯王

 346年9月に先代の契王が薨去し王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪郡太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗に対する外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作のために出征はできなかった。
 開国以来文字が無かったため記述ができなかったが、近肖古王の代になって博士の高興を得て、初めて文字(漢字)が伝わったとする。在位30年にして375年11月に死去した。
 『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に貢上し、阿知吉師と和邇吉師を使者として倭国に貢上した、とされている。この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されているが、古事記の照古王については第5代の肖古王とする説もある。『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に倭国に貢上したとも考えられるが、『日本書紀』では肖古王は神功皇后の治世に当たり、阿直岐(阿知吉師)と王仁(和邇吉師)の渡来は肖古王ではなく、阿花王(阿莘王)の時代とされている。
 ただ、和邇吉師が『論語』『千字文』などの典籍を倭国にもたらしたというのは、歴史的事実ではないという指摘も多数存在する(『千字文』が3世紀終わりにはいまだ成立していない)そもそも阿知吉師,和邇吉師が実在の人物か否かすら不明である。 

 『三国史記』によれば、385年乙酉11月、先代の枕流王が薨去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』では神功皇后摂政の乙酉年、『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。
 386年春には、15歳以上の国民を用いて関防(防衛用の長城)を築かせて北辺の高句麗に備えるとともに、同年夏には東晋から使持節・都督・鎮東将軍に封じられ、百済の伝統である「東晋から百済の連携で高句麗に対抗しようとする態勢」は整えられた。しかし、390年9月までは高句麗への侵略は成功しているものの、391年以降は高句麗・濊貊(三国史記が表記するところの靺鞨)の侵入を受けて敗戦を続けた。特に392年に高句麗の広開土王が4万の兵を率いて侵略してくると、漢水(漢江)以北の諸城はほとんど高句麗に奪われることとなった。
 高句麗に漢水以北を奪われた後、在位8年にして392年壬辰11月、薨去した。『三国史記』百済本紀・辰斯王紀では、狗原まで田猟に出て翌月になっても帰らず、狗原の行宮において薨去したと記す。『日本書紀』では、応神天皇3年壬辰、天皇に対し無礼があり問責のため紀角宿禰らが日本から遣わされたところ、百済の国臣が辰斯王を殺したため、阿花(阿莘王)が王に立てられたと伝えている。 

阿華王 蓋鹵王

 『日本書紀』では阿花王とされる。枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。即位の経緯については異説があり、『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。
 即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた関彌城について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった。翌年にも高句麗と戦って敗れており、さらに396年には好太王に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。阿莘王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。しかし服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、太子(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。また、399年高句麗討伐のための徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると、倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みている。
 倭国との修好についてはこのほか、『三国史記』によれば402年5月にも使者を派遣(目的は宝玉の入手か)しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚く労った、と記されているが、使者の往来に関する記事は日本側の資料には見られない。また、『日本書紀』に記される「百済から献上された阿直岐と王仁」は阿花王(阿莘王)の時代に相当するが、阿直岐と王仁に比定されうる人物は半島側の資料には見られない。なお、『古事記』では照古王(近肖古王か)の時代とする。
 405年9月に在位14年にして死去した。このとき、太子は倭国に人質として送ったままであったため、太子が腆支王として即位するまでの間に兄弟間での内乱が生じている。

 

 中国南朝と通じるとともに新羅,倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗するという、百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。北魏に対して高句麗を討伐することを働きかけるが失敗し、却って高句麗の侵攻を招いた。その結果475年には首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、王自身は戦死することとなった。
 史料によれば、百済は458年宋に、490年と495年に南斉に将軍号などの官爵の除正を要求するだけでなく、北魏にも将軍号を帯びた使者を派遣しており、当該期の百済において、将軍号は非常に重視されていた。倭は蓋鹵王による457年と458年の除正要求に先だって、倭王・珍が438年に、自らに「使持節,都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事,安東大将軍,倭国王」号を、さらに倭隋ら13人にも将軍号の除正を求めた。宋は珍の自称号を認めず、安東将軍に冊立したに過ぎなかったが、倭隋ら臣僚への平西将軍・征虜将軍・輔国将軍の除正要求は認めた。したがって、蓋鹵王が倭の影響をうけて宋に官爵号の除正を要求した可能性はある。
 457年(大明元年)10月には南朝宋の世祖より鎮東大将軍の爵号を受けただけでなく、458年には自ら百済国内で与えていた家臣団の仮の将軍号を世祖に認めてもらっている。南朝宋の側でも北魏への対抗のために、北魏及び高句麗の背後を牽制させる意図から、百済に対して高い評価をもって待遇した現われでもある。471年にも宋に対して朝貢を行なっている。
 461年頃、王子の軍君・昆支を倭国に人質として送り誼を通じた。なお、『日本書紀』には、昆支が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋まで来たときに王子が生まれたので百済に送り返されたこと、その王子が武寧王であることを記している。
 近肖古王以来100年にわたって、中国南朝とのみ通好してきた百済であったが、蓋鹵王に至って初めて北魏への接触を図った。472年(延興2年)には北魏に対して孝武帝即位の慶賀使節を派遣すると同時に上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐することを願い出た。北魏は高句麗・百済を視察させるために使者邵安を送ったが、邵安は高句麗から百済に行くことを阻まれ、やむなく北魏に帰国した。北魏は高句麗に対して叱責こそしたものの、結局のところ百済の願いは聞き入れず、これ以後蓋鹵王は北魏へ朝貢することはなかった。
 百済への侵攻をもくろむ高句麗は、僧侶・道琳をスパイとして送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなった。国庫の空になったことを見届けた道琳は高句麗に戻って長寿王に報告し、475年9月、長寿王はこれを好機とみて3万の兵を率いて漢城に攻め入った。高句麗の出陣を聞いて、蓋鹵王は王子の文周を諭して南方へ逃れさせた(あるいは新羅に救援を求めに行かせたとも言われる)。高句麗軍は漢城を攻め、蓋鹵王は籠城を図ったが焼き討ちにより西方へ逃れたところを捕らえられ、阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)にて処刑された。在位は21年間であった。この後、子の文周王は逃亡先で即位し、熊津(忠清南道公州市)に遷都することとなったが、475年をもっていったんは百済は滅んだものと考えられている。

毘支王 東城王

 『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)4月、兄の加須利君(蓋鹵王)により日本に遣わされた。その際、蓋鹵王の夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となった。7月宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。雄略天皇23年(479年)4月、百済の文斤王(三斤王)が急死したため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ王位につけた。これが東城王である、という。『新撰姓氏録』では、飛鳥戸氏の祖とされ、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神として祀られている。
 『三国史記』の百済本紀文周王には、文周王3年(477年)4月に「王の弟の昆支を拝し内臣佐平と為す」とあるが、同年7月に「内臣佐平の昆支卒す」とある。
 『宋書』百済伝に、百済王・余慶(蓋鹵王)が大明2年(458年)に宋に上表文を提出し、百済の将軍11名が宋から将軍号を認められているが、その中の征虜将軍の号を受けた左賢王余昆を、昆支王と同一人物とする説もある。
 朝鮮古代史学者の盧重国など韓国の研究者たちは、百済の第18代の王・腆支王の王妃である八須夫人は倭人だったと主張しており、関連して、金鉉球などは、昆支王,東城王,武寧王の王妃も倭人であり、倭国王家が政策的に婚姻させたと主張している。
 関連する遺跡として、高井田山古墳(大阪府柏原市)では初期横穴式石室の採用や武寧王陵出土例に似る火熨斗の出土が認められることから、5世紀後半頃の王族級百済系渡来人の墓と推定されており、昆支が日本で死去したとすればその墓とする説が挙げられている。 

 『三国史記』では三斤王が479年11月に死去したので王位についたとするだけであるが、『日本書紀』雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されている。公州丹芝里古墳群の横穴墓を5世紀末に東城王を護衛して百済に渡った倭人軍士の墓とみる見解もある(出土物のなかに倭系の須恵器とみられるものがある)。
 王位につくと直ちに、文周王を暗殺させた解仇の反乱を収めた真老を徳率(4等官)から兵官佐平(1等官)に昇進させ、内外の統帥権を委任した。また、首都熊津(忠清南道公州市)の在地勢力である燕氏,沙氏を重用して既存の政治体制を改革しようとした。対外的には、高句麗の長寿王が北朝だけではなく南朝にも朝貢して爵号を得たことを聞き、百済からも南朝斉に朝貢して冊封体制下に入ったが、高句麗の得た爵号に対しては評価の低いものに留まった。新羅との同盟(羅済同盟)を結ぶための使者の派遣も行っており、493年には通婚を要請して、新羅からは伊飡(2等官)の娘が嫁いできた。翌494年には高句麗が新羅を攻めたところに救援を送って高句麗兵を退け、さらに495年には高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退けている。このように新羅との同盟で高句麗に対抗する姿勢をとっていたが、501年7月には新羅に対しても警戒して炭峴に城柵を築いた。498年8月には、耽羅(済州島)が貢賦を納めなくなったので親征のために武珍州(現在の光州広域市)に赴いた。これを聞いて耽羅は使者を送ってきて謝罪し、以後は百済に服属したとみられる。
 倭国との関係では、東城王の即位以前に起きた二度にわたる百済と高句麗の戦い(455年と475年)において、古くからの同盟国であるにもかかわらず倭国が百済を支援しなかったことを背景に東城王は倭国に対しては非友好的な態度を取っている。
 王権と国力の回復に努め、外征にも成果を挙げた東城王であったが、在位の晩年には暗君と化した。499年に大旱魃が起こって国民が餓えたが、国倉を開いて民に施そうとするのを許さず、漢山(京畿道広州市)の民2千人が高句麗領に逃亡した。それにも拘らず500年には王宮の東に高さ5丈もの臨流閣を築き、池を掘り珍しい鳥を飼うなどの贅沢にふけり、諫言をする臣下を遠ざけた。さらに同年にも旱魃があったが、側近とともに臨流閣で一晩中の宴会をするなどしていた。こうした状況のなかで501年11月、衛士佐平の苩加の放った刺客に刺され、12月に死去した。諡されて東城王という。諡された百済王は初めてであった。 

武寧王 聖明王

 武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年と判明しており、この年は雄略天皇6年、蓋鹵王8年である。
 東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)の苩加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗,靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの「都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」から「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。
 武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大・東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。
 継体天皇6年(512年)に、任那の上哆唎(現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡),下哆唎(忠清北道錦山郡及び論山市),娑陀(全羅南道求礼郡),牟婁(全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(513年)に己汶(全羅北道南原市),滞沙(慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は516年に、日本に送っていた博士・段楊爾に代えて五経博士・漢高安茂を貢上した。

 梁からは524年に「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅,倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定となり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。
 541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した(任那復興会議)。百済のヤマト王権に対する要請は、百済主導の伽耶諸国の連合体制を承認することと、新羅に対抗するための援軍の派遣とであったが、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子・昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。在位32年。諡されて聖王といった。
 倭国に仏教を伝えたのもこの聖王の時代のことと考えられている。その記事では、使者を送り、金銅の仏像一体,幡,経典などを伝えたとし、その年は、戊午年(538年宣化天皇3年)説と壬申年(552年欽明天皇13年)説などがある。

威徳王 武王

 554年7月に聖王は新羅を討とうとして、家臣が諌めるのも聞かず兵を起こし、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。新羅は余勢を駆って百済を攻め滅ぼそうとしたが、背後に憂いがあるため取りやめになった。同年10月高句麗は熊川城に侵攻してきたがこれを撃退した。『三国史記』百済本紀では聖王の死後直ちに即位して王として高句麗戦にあたったとするが、『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王)を送ってきて聖王の死を伝えたこと、同年8月条には王位につかずに僧となろうとしたこと、欽明天皇18年(557年)3月に威徳王が即位したと記している。
 即位の後は中国北朝の北斉や北周,隋、南朝の陳に朝貢して冊封体制下に入り、倭,伽耶諸国と呼応して新羅,高句麗との戦いを続けた。561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。
 570年には、北斉の後主に使節を送り「使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王」に封じられ、翌571年には同じく北斉から「使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史」に封じられた。北斉が滅び隋が興ると、581年に隋に使節を送り「上開府・儀同三司・帯方郡公」に封じられた。589年には、陳を平定した隋の軍船が耽牟羅国(済州島)にたどり着き、威徳王はこの船が帰るときに援助するとともに、隋に使者を送って中華統一を祝賀した。このことを隋では喜んで、毎年の朝貢は不要との免除を与えた。598年9月には隋に使者を送って、高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出たが、既に戦争は一段落していたために話は沙汰やみになった。その事を聞きつけた高句麗は百済に侵攻してくることとなった。
 在位45年にして598年12月に死去し、群臣が協議して威徳王と諡した。

 第29代法王の子(『北史』には第27代威徳王の子と記されている)。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康,献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。
 朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。一方で高句麗との外交関係も維持しており、612年に隋が高句麗を攻撃したときにも、百済が軍事的に隋に協力することはなかった。新羅とは伽耶諸国の支配権をめぐって紛争が絶えず、602年8月には出兵して新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅の真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には椵岑城(忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)を攻撃した。618年に椵岑城は新羅に奪回されたが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。
 隋が滅びて唐が興ると、621年に朝貢、624年には「帯方郡王・百済王」に冊封されている。626年に高句麗と和親を結び、新羅をたびたび攻撃した。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求め、武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して仲裁を受け入れたが、その後も新羅との紛争は続いた。
 父の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。在位42年にして641年3月に死去し、武王と諡された。唐に使者を派遣してその死を告げたところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には光禄大夫の爵号が追贈された。

 

義慈王 豊(扶余豊璋)

 幼い頃から父母を非常に敬って、兄弟と親しく過ごしたから臣民らが彼を「海東曽子」と呼んで 称頌をした。また太子の名前を「孝」と付けたほど親孝行を強調した。632年に太子に立てられ、641年に先代の武王の死により即位し、唐からは「柱国・帯方郡王・百済王」に封ぜられた。
 義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に異母弟の翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、王子・豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた。
 642年7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた(このとき斬首にされた城主の妻は金春秋(後の武烈王)の娘の古陀炤公主)。また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった。
 この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立させて追い詰めようとしていたところが、新羅と唐との接触を招くこととなった。このとき唐からは百済,新羅の両国に対して和平を進めた。しかしこの後も644年から649年にかけて新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗した。
 651年に唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらず、655年には高句麗,靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、既に朝政を顧みなかったという。また、これを厳しく諫めた佐平の成忠(あるいは浄忠)を投獄したため、この後諫言する者はいなくなった。
 660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)して百済を攻めることとなった。百済の側では迎撃と籠城とで意見が分かれたが、白江(錦江の支流)に引き込んで迎撃することしたが、結果として大敗を続けた。唐・新羅軍が首都の泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると、義慈王はいったん太子とともに北方へ逃れた。このときに王の第2子の泰が自ら王を名乗って泗沘城を固守したが、太子の子の文思が隆に相談して、唐軍が去ったとしても自立した泰に害せられることを恐れて投降した。これを見た泰も開城して投降し、逃げのびていた義慈王も諸城を挙げて降伏し、ここに百済は滅んだ。
 義慈王は捕虜として妻子とともに長安に送られた。660年11月1日、洛陽に滞在中だった津守吉祥,伊吉博徳ら日本の遣唐使一行が、捕虜となった義慈王ら百済の王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が護送されるのを目撃している。義慈王は同年のうちに唐で病死したとされるため、それから年末までの2ヶ月間に死亡したと推測される。「金紫光禄大夫・衛尉卿」の爵号を贈られた。また、隆には司稼卿の爵号が贈られた。
 百済滅亡後、子の一人・豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。また唐は、百済旧領に熊津都督府を置いて羈縻州としたが、百済遺民を慰撫するため、665年、義慈王の王子の扶余隆を「熊津都督・百済郡公熊津道総管兼馬韓道安撫大使」として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当たった。その後、新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗,百済の地は新羅,渤海,靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。677年2月、唐は扶余隆の封爵をかつての百済国王と同じ「光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王」に格上げし、熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。682年、隆は洛陽に没し、輔国大将軍の爵号を追贈された。武則天が隆の孫の扶余敬に衛尉卿を授けて帯方郡王に封じたが、旧領の回復は全くできず、子孫も断絶した。1920年、扶余隆の墓誌が洛陽で出土し、中国史料や『三国史記』などには記載されていない隆の経歴や爵号、生没年などが判明した。
 義慈王の妃は恩古という女性。孝,泰,隆,演,豊璋,勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。子の一人・善光の子孫は百済王の氏姓を賜り、日本の貴族として続いた。他の子孫は王の氏姓、萊州王氏として続いた。 

 『日本書紀』での表記は余豊璋,余豊もしくは名のみの豊璋,豊章であるが、『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊,『旧唐書』では扶余豊もしくは余豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。
 豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、『三国史記』百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるため、この頃ではとする説もある。また、皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされており、翹岐=豊璋同一人物説においては当然、この時に倭国に渡来したとされている。
 『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の主従関係を担保する人質ではあるものの、倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は決して悪くはなかった。
 660年、唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだけだったので、百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。662年5月、斉明天皇は豊璋に安曇比羅夫,狭井檳榔,朴市秦造田来津が率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
 豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵を見捨てて脱出し倭国の援軍に合流した。やがて唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27,28日の両日、倭国水軍と白村江で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した(白村江の戦い)。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
 豊璋の弟については、『日本書紀』によれば百済王善光(『続日本紀』では徐禪廣)といい、豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。白村江の戦いの後、百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王の姓を賜った。 

琳聖太子

 大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。名は義照。威徳王の孫で餘璋の子とするものもある。百済王の齋明の第三子とも。15世紀後半の文献からしか名がみられないため、架空の人物である可能性が高い。
 15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県を賜ったという。しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない。
 大内氏の百済との繋がりを名乗り始めた大内氏当主が、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。特に外来系という系譜を持った家は、大内家に代表される西日本に多い。琳聖太子なる人物は、大内家の先祖に関してしか出てこない名前であり、実在を証明する史料はない。大内家の家系伝承も室町時代にできたものとみられ、文献的には応永年間(1394~1427年)以前には遡れないというのが学界の多数説である。
 大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知られており、興福寺大乗院門跡・尋尊が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述がみえる。