KKR1:高句麗王朝1 | 百済王朝1 | KDR1:百済王朝1 |
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温祚王 | 多婁王 |
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源流を扶余に求める神話を持ち、氏は扶余または余とする。 |
先王のときと同じく、即位当初から東北辺の靺鞨との戦いが続いた。初めのうち(30年,31年)はこれらを大いに殺したり捕虜にしたが、治世の中頃には攻め込まれるばかりとなり、56年には牛谷城を築いて備えることとした。一方、東方では63年には領域を娘子谷城(忠清北道清原郡)まで広げ、新羅に対して会盟を申し入れたが、受け容れられなかった。そこで64年、軍を派遣して新羅の蛙山城(忠清北道報恩郡)を攻撃したが、勝つことができず、南の方へ戦場を移し、狗壌城(忠清北道沃川郡)で新羅の兵を敗走させた。これ以後、蛙山城は新羅との係争地となり、互いに奪回を繰り返した。最終的には蛙山城を新羅に奪回されたまま、多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。 |
肖古王 | 古爾王 |
遼東王・公孫度の娘を娶る。 |
234年に第6代の仇首王が死去した際に、その長子の沙伴王がいったん王位についたが、幼少であったため政務を執ることができず、肖古王の王弟の古尓王が王位を継いだ。
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近肖古王 | 辰斯王 |
346年9月に先代の契王が薨去し王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪郡太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗に対する外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作のために出征はできなかった。 |
『三国史記』によれば、385年乙酉11月、先代の枕流王が薨去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』では神功皇后摂政の乙酉年、『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。 |
阿華王 | 蓋鹵王 |
『日本書紀』では阿花王とされる。枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。即位の経緯については異説があり、『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。
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中国南朝と通じるとともに新羅,倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗するという、百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。北魏に対して高句麗を討伐することを働きかけるが失敗し、却って高句麗の侵攻を招いた。その結果475年には首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、王自身は戦死することとなった。 |
毘支王 | 東城王 |
『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)4月、兄の加須利君(蓋鹵王)により日本に遣わされた。その際、蓋鹵王の夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となった。7月宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。雄略天皇23年(479年)4月、百済の文斤王(三斤王)が急死したため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ王位につけた。これが東城王である、という。『新撰姓氏録』では、飛鳥戸氏の祖とされ、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祭神として祀られている。 |
『三国史記』では三斤王が479年11月に死去したので王位についたとするだけであるが、『日本書紀』雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されている。公州丹芝里古墳群の横穴墓を5世紀末に東城王を護衛して百済に渡った倭人軍士の墓とみる見解もある(出土物のなかに倭系の須恵器とみられるものがある)。 |
武寧王 | 聖明王 |
武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年と判明しており、この年は雄略天皇6年、蓋鹵王8年である。 |
梁からは524年に「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅,倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定となり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。 |
威徳王 | 武王 |
554年7月に聖王は新羅を討とうとして、家臣が諌めるのも聞かず兵を起こし、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。新羅は余勢を駆って百済を攻め滅ぼそうとしたが、背後に憂いがあるため取りやめになった。同年10月高句麗は熊川城に侵攻してきたがこれを撃退した。『三国史記』百済本紀では聖王の死後直ちに即位して王として高句麗戦にあたったとするが、『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王)を送ってきて聖王の死を伝えたこと、同年8月条には王位につかずに僧となろうとしたこと、欽明天皇18年(557年)3月に威徳王が即位したと記している。 |
第29代法王の子(『北史』には第27代威徳王の子と記されている)。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康,献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。
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義慈王 | 豊(扶余豊璋) |
幼い頃から父母を非常に敬って、兄弟と親しく過ごしたから臣民らが彼を「海東曽子」と呼んで 称頌をした。また太子の名前を「孝」と付けたほど親孝行を強調した。632年に太子に立てられ、641年に先代の武王の死により即位し、唐からは「柱国・帯方郡王・百済王」に封ぜられた。 |
『日本書紀』での表記は余豊璋,余豊もしくは名のみの豊璋,豊章であるが、『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊,『旧唐書』では扶余豊もしくは余豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。 |
琳聖太子 | |
大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。名は義照。威徳王の孫で餘璋の子とするものもある。百済王の齋明の第三子とも。15世紀後半の文献からしか名がみられないため、架空の人物である可能性が高い。 |