KDR1:百済王朝1 | 百済王朝1 ― 百済王善光 | QD01:百済王善光 |
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百済王善光 | 百済王郎虞 |
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舒明朝に百済国王・義慈王によって兄・豊璋と共に百済から人質に出され宮家に近侍した。その後、斉明天皇6年(660年)の百済の滅亡や、天智天皇元年(662年)の豊璋の百済帰国、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いなどがあったが、善光は帰国せず日本に留まる。白村江の戦いにより帰国が不可能となった善光は、天智天皇3年(664年)居住地を難波に定められた。 |
朱鳥元年(686年)天武天皇の葬儀において、祖父・百済王善光の代理として誄を宣べる。持統天皇5年(691年)正月の宴において、祖父の善光と弟の南典と共に優(賑わしくする物)を与えられている。 |
百済王勝義 | 百済王敬福 |
若くして大学寮で学び、文章道を非常に学習した。大同元年(806年)大学少允に任ぜられ、大同4年(809年)右京少進に転じる。 |
陸奥介を経て、天平11年(739年)従五位下に叙爵し、天平15年(743年)に陸奥守に昇進する。当時、聖武天皇は東大寺大仏の建立を進めており鋳造まで終えていたが、巨大な仏像に鍍金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。天平18年(746年)4月に敬福は陸奥守を石川年足と交替して上総守に転任するが、9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されている。奇妙な人事だが、あるいはこの時には黄金探索の手がかりがあった可能性もある。 |
百済王俊哲 | 百済王教法 |
光仁朝の宝亀6年(775年)鎮守将軍・大伴駿河麻呂らと共に、陸奥国で叛乱を起こし桃生城に侵攻した夷俘を鎮圧・服従させ、俊哲は勲六等の叙勲を受ける。さらに宝亀9年(778年)には蝦夷征討に軍功があったとして勲五等に叙せられる。 |
百済王氏からは教法のほかに教仁,貞香が桓武天皇の後宮に入ったが、女御になったのは教法だけである。なお、紀乙魚とともに桓武天皇の女御になった教法だが、この任命が女御の始まりとされる。延暦24年(805年)に相模国大住郡の田二町、弘仁2年(811年)に山城国乙訓郡の白田一町を嵯峨天皇から賜っている。承和7年(840年)11月29日卒去。享年不明。天皇との子については記録はない。 |
百済王教俊 | 百済王慶仲 |
従五位下に叙爵後、延暦18年(799年)下野介に任ぜられる。その後、左衛士佐として京官に遷り、延暦25年(806年)美濃守を兼ねている。同年の桓武天皇の崩御に伴う平城天皇への代替わりに際しては、桓武天皇の葬儀における作路司や、斎内親王を迎えるための伊勢神宮への使者などを務めた。 |
仁明朝の承和4年(837年)従五位上から正五位下に昇叙され、承和6年(839年)従四位下・民部大輔に至る。また、時期は不明ながらこの間に武蔵守を務めた。承和7年(840年)右大臣・藤原三守の薨去に際して、その邸宅に参議・文室秋津と共に派遣され、従一位贈位の詔を宣べている。承和8年(841年)4月20日卒去。 |
百済王南典 | |
持統天皇5年(691年)正月に祖父・百済王善光らと共に、天皇から優(賑わしくする物)を与えられた。 |