百済系渡来氏族

KDR1:百済王朝1  百済王朝1 ― 和 宇奈羅 WA01:和 宇奈羅

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和 乙継 高野新笠
 生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後、宝亀年間(770~781年)に高野朝臣と改姓(『続日本紀』に生前の記録がなく、没後の賜姓とも考えられる)。妻の土師真妹は土師氏であり、桓武天皇即位後、延暦9年(790年)に大枝朝臣と改姓(没後の賜姓である)。延暦8年までにどちらも死去し、ともに正一位が追贈された。

 桓武天皇,早良親王,能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之子姫尊。高野朝臣は光仁天皇即位後の賜姓。
 天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生む。
 白壁王は、天平16年(744年)以後、称徳天皇の異母妹・井上内親王を正妃に迎える。そして宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され光仁天皇となった。皇后には井上内親王、皇太子にはその子・他戸親王が立った。
 新笠の甥・和家麻呂が議政官に任ぜられた際、「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記された。しかし、宝亀3年(772年)3月に井上皇后は、呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月に廃太子となった。翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ、大和国の没官の邸に幽閉。2年後の宝亀6年(775年)4月27日に幽閉先で死去した。
 この間、宝亀4年(773年)1月2日に新笠の子・山部親王が立太子し、藤原式家の乙牟漏を妃に迎える。宝亀5年には、王子(のちの平城天皇)が生まれた。
 新笠は宝亀9年(778年)1月29日、従四位下から従三位となる。この頃、高野朝臣を賜り夫人となったが、立后はされず、藤原北家の藤原永手の娘で皇子女のいない藤原曹司が、新笠に先んじて従三位・夫人の位にあった。
 天応元年(781年)4月15日、山部親王が桓武天皇として即位すると、新笠は皇太夫人と称された。同年4月27日、新笠は正三位に昇叙。皇太子に桓武天皇同母弟・早良親王が立ったが、延暦4年(785年)、早良親王は藤原種継事件に連座し淡路へ流されることとなり、自ら命を絶った。新笠は延暦8年に薨去。同じ頃、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏,夫人・藤原旅子らが相次いで没しており、早良親王の怨霊によるものと噂された。薨去後に皇太后を、さらに延暦25年(806年)には、太皇太后を追贈された。陵は大枝陵。諡号「天高知日之子姫尊」は、百済王族の遠祖である高句麗の高朱蒙(東明聖王)は河伯の娘が日精に感じて生まれた人であるという伝承に因んで名づけられた。

和 国守 和 家麻呂

 天応元年(781年)4月に桓武天皇の即位に伴って外従五位下に叙せられ、同年10月に造法華寺次官に任官する。園池正を経て、延暦3年(784年)内位の従五位下に叙せられる。またこの間、延暦2年(783年)国守ら一族35人は史姓から朝臣姓に改姓している。
 延暦4年(785年)下野介に転じると、延暦6年(787年)三河守と、桓武朝前半の一時は地方官を務める。延暦9年(790年)大蔵少輔として京官に復し、延暦10年(791年)従五位上に至る。

 

 延暦5年(786年)従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵され、伊勢大掾に任ぜられる。延暦7年(788年)造酒正に遷ると、造兵正,内厩助,治部大輔と京官を歴任する一方、桓武朝半ばより天皇の外戚(従兄弟)として急速に昇進する。
 延暦15年(796年)には正四位下・参議に叙任され、渡来系氏族出身者として初めて公卿に昇る。延暦17年(798年)従三位・中納言に叙任され、同じく桓武天皇の従兄弟に当たる右大臣・神王,大納言・壱志濃王に次いで、太政官で第三位の席次を占める。のち、中務卿,宮内卿を兼帯した。
 延暦23年(804年)4月27日薨去。享年71。没後、従二位・大納言の官位を追贈された。
 木訥な性格で才学はなかった。天皇の外戚であったために、人臣として過分の昇進を果たしたが、天から授けられた才能には恵まれなかった。顕職に昇ってからも、旧知の者に会った際には、その者の身分が卑しいとして嫌ったりせず、握手して相語らったとして、見る者を感心させたという。