<継体朝>

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光厳天皇 崇光天皇

 正和2年(1313年)7月9日、誕生。幼少期は持明院統の正嫡として、叔父である花園上皇をはじめとする親族から帝王教育を受けた。嘉暦元年(1326年)7月、後醍醐天皇の皇太子となる。
 元弘元年(1331年)8月24日、鎌倉幕府の打倒に失敗した後醍醐が京都を出奔すると、9月20日、後鳥羽天皇の先例に基づき、後伏見上皇の詔を用いて19歳で践祚。のちに捕縛された後醍醐より皇室伝来の三種の神器を継承し、即位礼および大嘗祭を挙行する。
 在位3年目の正慶2年(1333年)春頃から後醍醐による倒幕運動が活発となり、同年5月には、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏による攻撃を受け、避難していた六波羅探題邸が陥落する。幕府軍と共に東国へ逃避行をするも近江国番場にて幕府軍全員が自害し、自身も逮捕された。そして、後醍醐に廃位されてしまう。
 しかし、建武3年(1336年)2月、後醍醐天皇方を離反し敗走していた尊氏に対し、後醍醐天皇方である新田義貞の追討を命じる院宣を与えた。そして、義貞を破った尊氏の反撃によって後醍醐の建武政権が崩壊すると、治天の君に返り咲いた。同年8月に弟の豊仁親王を践祚させ(光明天皇)、北朝が開かれる。吉野に逃れた後醍醐を頂点とする南朝も開かれ、二人の天皇が立つ南北朝時代となったが、序盤より北朝が優勢を獲得した。
 光明と皇子・崇光天皇の在位中は院政を敷き、新たに成立した室町幕府と協調しながら法整備や撫民政策を実行した。幕府と協調した徳政は、貞和徳政と称されている。天龍寺や安国寺利生塔の建立にも関与した。また、和歌にも力を入れ、勅撰和歌集である『風雅和歌集』を自ら編纂するなどした。
 ところが、足利将軍家の内訌である観応の擾乱が起き、観応2年(1351年)11月、尊氏が南朝に降伏して正平一統が成ると、北朝は一時的に廃止された。崇光は廃位され、光厳院政も停止された。さらに翌年には、南朝によって大和国の山奥である賀名生に拉致されてしまう(三上皇拉致)。
 程なくして北朝は復活することとなるが、皇子である弥仁王践祚の計画に失望して幽閉中に出家し、禅宗に帰依した。延文2年(1357年)2月、帰京。晩年に持明院統の相続を定め、その後の伏見宮の成立や存続に深く関与している。その後、丹波国山国に常照皇寺を建立し、同地で修行して悟りを得た。貞治3年(1364年)7月7日、常照皇寺にて崩御。宝算52(満51)。
 南北朝合一以降も、自身の皇統が独占して天皇を輩出していくことになるが、明治44年(1911年)、自身の子孫である明治天皇が世論の煽りを受けて南朝の天皇を正統とした結果、『皇統譜』から除外され歴代天皇の地位を消失した。その生涯は、始終乱世に翻弄され、さらに最終的には二度も皇位を否定されるなど、天皇としても数奇なものであった。しかし、そのなかでも花園上皇の教えを守り、真摯に政務に向かったとされる。光厳は、治天の君として民衆を思いやり、生涯にわたって君主としての責任を果たそうとした天皇と評価されているが、したたかな為政者像も提示されている。

 光厳天皇の第一皇子。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子。光明天皇の譲位を受けて践祚し、父の光厳上皇が院政を執った。在位中には観応の擾乱が激化し、南朝と足利尊氏の和平である正平一統が成立すると、南朝の後村上天皇によって廃位された。さらに、正平一統が破綻すると、光厳上皇,光明上皇,直仁親王とともに、南朝によって拉致された。
 旧北朝は、新天皇の践祚に必要とされる三種の神器を南朝に渡してしまっており、さらに次期天皇の任命権者である上皇のいずれも南朝方に連れ去られ(三種の神器が不在の場合、当時は後鳥羽天皇の先例に基づき太上天皇の詔宣を用いて新天皇の践祚を行うことができた)、新しい天皇を践祚する方法が無く、再興に多大な困難が生じた。たまたま南朝による拉致をまぬがれた光厳の第二皇子で崇光の同母弟にあたる弥仁王が擁立され、祖母の広義門院が光厳に代わって主導し、継体天皇の「群臣義立」の先例を基に後光厳天皇が践祚した。
 金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、延文2年(1357年)2月に光厳院,直仁親王とともに帰京する。直仁親王はすでに出家したため、光厳は崇光を持明院統の正嫡に定めた。帰京後の崇光と後光厳は良好な関係を築いたとされるが、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの第二皇子の緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの第一皇子の栄仁の即位を要求して争ったが、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。なお、永徳2年(1382年】4月に後円融が第一皇子の幹仁(のちの後小松天皇)に譲位しようとしたときは、後円融は過剰に崇光を恐れたが、崇光は栄仁の即位を主張せず、また足利義満が後円融を強く支持したため、結局、栄仁の即位は実現しなかった。応永5年1月13日(1398年1月31日)、失意のうちに崩御。宝算65。
 北朝内部の皇統は二つに割れ、後光厳天皇の血統が皇位を継承する一方、崇光天皇の血統は伏見宮を名乗る。崇光天皇の没後、称光天皇の崩御によって後光厳皇統が途絶えると、伏見宮家から彦仁王が践祚(後花園天皇)。以降はこの皇統が皇位を独占している。また、伏見宮も貞常親王(後花園天皇の弟)の皇統で伝えられ、明治以降に数多くの宮家が分流したことから、崇光天皇は現在の皇室と旧皇族の男系での共通祖先の天皇にあたる。

栄仁親王 貞成親王

 正平23年(1368年)正月、親王宣下を受け、栄仁と命名される。 天授元年(1375年)11月元服し、二品に叙せられる。
 父帝・崇光上皇は、持明院統嫡流として第一皇子である栄仁親王の即位を念願していた。しかし、皇統が南北朝、さらには北朝自体が崇光上皇,栄仁親王の系統と、崇光天皇の弟である後光厳天皇の系統に分立するなど、情勢は栄仁親王の登極が実現するには厳しいものがあった。応永5年(1398年)正月、崇光上皇が崩御し、最大の後ろ盾を失った栄仁親王は、同年5月出家し8月に洛北萩原殿に移る。
 応永6年(1399年)12月、伏見殿に移るが、応永8年(1401年)に伏見殿が火事で焼け落ち、嵯峨洪恩院に移る。応永10年(1403年)には有栖川山荘(有栖川殿)に移り、有栖川殿と称する。遍歴を余儀なくされた親王であるが、応永16年(1409年)6月に皇室累代の御料である伏見に戻り、伏見殿と称されるようになる。親王の伏見御料は、以後子孫相次いで伝領され、これが伏見宮の起源となる。応永23年11月20日(1416年)薨去。66歳。
 また、栄仁親王は、琵琶,笙,和歌など諸芸能に堪能で、伏見宮家が楽道を家業とする起源を作った。

 幼少時から今出川家で養育される。左大臣・今出川公直・公行父子が養親となり、貞成は終生その養育の恩を忘れなかった。音楽や和歌に親しんだのも幼時の環境による。
 応永18年(1411年)4月4日、40歳になってやっと父宮・伏見宮栄仁親王のもとに迎えられ、伏見御所で元服して貞成と名乗った。
応永23年(1416年)11月20日に栄仁親王が薨去すると、その跡を継いだ兄・治仁王も翌24年(1417年)2月11日に急死したため、貞成王がその後継となったが、貞成には兄を毒殺した嫌疑がかけられた。後小松院や四代将軍・足利義持からの安堵を受けて大事には至らなかったが、伏見宮は正平一統の際に廃位されて吉野に拉致された崇光天皇の正嫡の系統であるがために、崇光天皇の弟・後光厳天皇によって再興された北朝の系統である当時の皇統からは猜疑心をもって見られることが何かと多かった。応永25年(1418年)7月には称光天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊したのを天皇から貞成の子だと身に覚えのない密通の嫌疑がかけられたが、このときも義持のとりなしで貞成は起請文を提出して辛くも窮地を脱している。
 応永32年(1425年)2月、称光天皇の皇太弟・小川宮が没すると、貞成はかねてから病弱で継嗣もなかった天皇の皇儲の候補となり、4月16日には後小松院の猶子として親王宣下を受けた。しかし、このことは天皇の逆鱗に触れることとなり、貞成はわずか3ヶ月後の閏6月3日には伏見指月庵で薙髪に追い込まれる。出家後の法号を道欽といい、以後は道欽入道親王を名乗った。
 正長元年(1428年)7月、称光天皇が再び重態に陥ると、この時は六代将軍・足利義教が道欽の第一王子の彦仁王を庇護し、後小松に新帝の指名を迫った。これを受けて、後小松は称光天皇崩御の後、彦仁王を改めて猶子とし、譲国の儀をもってこれを即位させた(後花園天皇)。その後も後小松が引き続き治天として院政を敷いたため、道欽には目立った動きがなかったが、永享5年(1433年)に後小松が崩御してからは天皇の実父としての存在感を見せるようになり、永享7年(1435年)には新しく伏見御所を造営してそこに移っている。
 文安4年(1447年)11月27日、後高倉院を先例として、道欽入道親王には不登極帝として太上天皇の尊号が奉られ、法皇として遇されることになった(後崇光院)。しかし、道欽は慎重を期して翌年(1448年)2月22日にはこれを辞退している。康正2年(1456年)8月29日、薨去。墓所は伏見松林院陵。 

治仁王 後光厳天皇

 世襲親王家の伏見宮第2代当主。追号は葆光院。父は栄仁親王、母は三条実治の女の藤原治子(西御方)。妃に今上臈(一条氏)。北朝第3代・崇光天皇の孫。
 応永15年(1408年)12月20日に元服。応永18年(1411年)には弟の貞成を猶子とし、貞成元服の加冠役を務めた。応永23年(1416年)11月に父の栄仁親王が薨去すると宮家を相続するが、わずか数ヶ月で急逝した。このため治仁王の跡を継いだ貞成親王に兄宮を毒殺した嫌疑がかけられたが、後小松上皇や4代将軍・足利義持への弁明が功を奏して安堵を受けている。
 なお、治仁王は貞成親王の兄であるというのが通説であるが、貞成親王の弟とする説もある。これは、治仁王薨去について記した『看聞日記』(貞成親王の日記)の記事に書かれた王の享年が「卅七」と記され、当時46歳であった貞成親王よりも年下になっていることによる。もっとも、これを「卅」と「卌」の書き誤りに過ぎず、また『看聞日記』には一貫して治仁王を「一宮」などと書かれていることから、栄仁親王の長男で貞成親王の兄というのが正しいとする反論もある。墓は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町泰長老にある治仁王墓に治定されている。光明天皇陵,崇光天皇墓と同兆域である。 

 建武5年(1338年)、北朝の治天の君である光厳上皇の皇子として誕生した。しかし、皇位継承には縁がなく、将来は妙法院門跡に入ることが決まっていた。
 ところが、正平一統によって北朝が解消したのち、室町幕府との和平を破棄した南朝は、北朝の主だった皇族を拉致した。三宮(後光厳)は拉致を免れたため、幕府の申入れにより急遽践祚することとなった。この際、三種の神器は一統の際に南朝によって接収されていたため継承できず、さらに神器が無い場合の践祚に必要な太上天皇の詔宣も無かったため、継体天皇の先例が引照された。
 在位中は、財政難・人材難に喘ぎ、政務の停滞に直面した。また、度重なる南朝の京都侵攻によって三度も都を追われ、さらに、帰京した父の光厳法皇と持明院統の伝統を巡って対立した。そうした中でも、正平一統以降滞っていた朝儀を再興させ、二度にわたって『勅撰和歌集』の撰集を行わせた。二条良基による『菟玖波集』も、後光厳の准勅撰連歌集にあたる。
 在位は20年近くに及び、やがて後光厳は自身の皇子への譲位を志すようになる。兄の崇光上皇が自身の皇子・栄仁親王の皇位継承を主張したため、後光厳と崇光との間で対立が生じた。そこで後光厳は幕府の支持を取り付けて、応安4年(1371年)3月に皇子・緒仁親王(後円融天皇)への譲位を強行する。
 譲位後は治天の君として院政を敷き、公家訴訟法の『応安法』を成立させるなど、政務への意欲的な姿勢を示した。しかし、興福寺衆徒の嗷訴が起こると、後光厳の側近らは放氏に処され、新帝の即位礼も延期となってしまう。後光厳は自ら解決を図ろうとし衆徒と激しく対立した。そうしたなか、後光厳は疱瘡を患い、応安7年(1374年)1月に崩御。宝算37。
 葬儀は同年2月2日に泉涌寺にて行われ、これ以降、幕末までの天皇家の葬儀は基本的に泉涌寺で行われることとなる。

後円融天皇

 延文3年(1359年)、後光厳天皇の第二皇子として誕生。後光厳天皇は、兄の崇光上皇との間に皇位継承問題を抱えていたが、幕府や公卿らの支持を得て、第二皇子への譲位を実現させた。
 ところが、後光厳上皇による院政は、春日神木の在洛により挫折し、さらに、後円融天皇の即位礼も践祚から4年を経て挙行されるという前例のないものであった。
 後円融による親政が行われる中、北朝の政務や朝儀は急速に停滞・衰退してゆく。その中で、後円融は二条良基や足利義満といった臣下とたびたび衝突した。義父にあたる三条公忠とも軋轢が生じている。後小松天皇への譲位直後、義満との対立が激化し、後円融は即位礼の準備および出席を放棄するまでに至った。永徳3年(1383年)から義満との関係はさらに悪化し、義満が献上した正月儀礼の費用を突き返して仙洞御所の正月行事がすべて中止となったり、父・後光厳天皇の供養仏事に公卿が参加しないなどの事態が発生している。そして、後光厳天皇の仏事より2日が経った日の夜、些細なきっかけにより、後小松の生母にあたる三条厳子を刀の峰で打擲し、出血多量の重傷を負わせるという傷害事件を起こす。さらには、義満が自身を流罪に処そうとしていると思い込み、持仏堂に立て籠もったうえで切腹すると宣言した。
 結局、母・仲子のとりなしで切腹はせず、仲子の邸宅に引き取られると冷静さを取り戻した。以後は義満や良基との関係修復が図られ、義満も後円融院政の仕切り直しを行った。その後は特に目立った行動は無く、明徳4年(1393年)4月に36歳の若さで崩御した。後円融上皇の崩御をもって、公家による政治は事実上終焉を迎えたとされる。