伏見宮

K501:光厳天皇  光厳天皇 ―(栄仁親王)― 貞常親王 K801:伏見宮貞常親王


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貞常親王 尭胤法親王

 3歳の時に兄の彦仁(後花園天皇)が践祚し、将来の親王宣下の可能性が出てきたことから父の貞成親王はその将来に気を配り、当時の代表的学者であった中原康富を侍読として招くなど最大限の配慮を示した。後花園は後小松上皇の猶子として即位した経緯から、後小松の生前には実家の待遇改善には消極的であったが、永享5年(1433年)に後小松が死去すると積極姿勢を示し、庭田重賢(後花園と貞常の母・幸子の甥)を通じて、貞常を元服させたうえで親王とし、さらに貞成に上皇の尊号を奉る意向を伝えた。
 文安2年(1445年)3月16日、関白・二条持基の加冠によって元服が行われた。ところが、親王宣下は突然中止となり、貞成の抗議に応じて5月20日に万里小路時房と松木宗豊が勅使として貞成のもとに派遣され、事情聴取を行った。6月7日には「荒説」「云口」(デマ・中傷)を理由として広橋兼郷と白川雅兼が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者は後小松上皇の側近で、貞成に尊号を与えてはならないとする上皇の遺詔に従って尊号宣下に反対していた人々であると考えられており、その前提となる貞常への親王宣下を延期させる結果に至っていることから、貞成・貞常親子と天皇の関係を引き裂くような性質のデマを流したと考えられている。問題が解決したあとの6月27日になってようやく貞常への親王宣下が行われた。翌文安3年3月28日には二品に叙せられ式部卿に任じた。同年8月27日には貞成より家領を譲られた(文安4年には貞成への尊号が実現している)。
 康正2年(1456年)8月に後崇光院(貞成)が死去すると、10月には貞常は後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された。これまでも世襲宮家は複数存在し伏見宮もその1つであったが、親王宣下の保証はなかった。だが、今回の勅許は歴代当主に対する親王宣下に対する保証を初めて与えたものであり、これをもって世襲親王家の成立とみなすことが可能である。また、父である貞成親王は『椿葉記』において、天皇が貞常親王を猶子に迎えることを希望しており、具体的な時期は不明であるものの、これは実現されたようである。
 和歌や漢詩,書道など様々な芸能に長けた人物であり、その逝去時には応仁の乱の最中にも関わらず、多くの人々からその死を惜しまれたと言う。

 応仁2年(1468年)、京都三千院で出家した。後花園天皇の猶子となって文明3年(1471年)に親王宣下を受ける。明応2年(1493年)、天台座主に就任し、焼失した比叡山根本中堂の再建に尽力した。

 

 

安藤惟実(邦茂王) 安藤為章

 三好氏や細川氏らによる戦乱を避けて、祖父・安藤宗実の領地であった丹波国桑田郡小口村に逃れた。著作に『千年山八境記』がある。永禄13年(1570年)4月11日に41歳で死去した。
 父は伏見宮第7代当主の邦輔親王、母は安藤宗実の女。後に母方の姓を称し安藤惟実と名乗った。孫娘の安藤定子は、伏見宮第10代当主の貞清親王との間に伏見宮第13代当主の貞致親王を産んでいる。

 

 江戸時代初期から中期にかけての国学者。年山と号する。伏見宮に仕える安藤朴翁の次男として丹波国桑田郡に生まれる。母は歌人の安藤亀子。
 儒学を伊藤仁斎に、和歌を中院通茂に学ぶ。兄の為実とともに最初は伏見宮に仕え、後に2人とも水戸藩の徳川光圀に招かれて彰考館の寄人となり『大日本史』『礼儀類典』『釈万葉集』の編纂に従事した。光圀の命令で契沖のもとに万葉集の註釈を教わりにたびたび出かけることとなり、ついには契沖の門人となる。水戸藩から家禄を加増する命があったが、実子がないことを理由にこれを断り、養子もとらず家が絶えた。伴蒿蹊は「人のなし難き所にして、吾が天を安んずるの節義称すべし」と評す。

常胤法親王 尊朝法親王

 伏見宮邦輔親王の第4王子。母は万里小路惟房の娘。
 永禄7年(1564年)、京都妙法院で出家。門跡となり妙法院宮といわれる。正親町天皇の猶子となり、天正3年(1575年)に親王宣下を受ける。慶長2年(1597年)、第168代天台座主となる。雲龍院門主にもなる。慶長19年(1614年)には、京都方広寺大仏鐘名事件により、方広寺別当の照高院興意法親王の後をうけ、大仏を兼管し別当職についた。豊臣家滅亡後の元和2年(1616年)、妙法院門主であった常胤は豊国社より豊臣秀吉の遺品等を押領。そのまま、徳川家康より豊国社や神宮寺(豊国社別当神龍院梵舜の役宅)は妙法院に引き渡された。
 元和7年(1621年)6月11日薨去、74歳。墓所は妙法院宮墓地。

 天文19年(1550年)に尊鎮法親王が亡くなった後、空席が続いていた青蓮院門跡をわずか4歳で継承するが、門跡の職務を行い得なかった。これに対して青蓮院傘下とされていた浄土真宗本願寺の顕如は朝廷に働きかけて、永禄2年(1559年)に本願寺の門跡昇格を果たしている。成長後の尊朝法親王は書道に優れ、青蓮院流から別流の尊朝流を創立した。また、越後国の戦国大名・上杉景勝と親交があった。同国内で新発田重家が反乱を起こした際の天正15年(1587年)、景勝の要請を受け、新発田重家に対し和睦を勧告する使者を派遣している。