日野資教邸で養育される。永徳2年(1382年)4月、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍・足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。 明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)、明徳の和約により、南朝の後亀山天皇から三種の神器を譲り受ける形で南北朝合一。 明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、上皇の権勢を継承し、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るった。応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後、南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。 治天の君としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた細川氏の兵に捕らえられ、翌日、六条河原で斬首された事件が発生している。 称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子・小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍・足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。 正長元年(1428年)、称光が危篤となると、6代将軍・足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。 称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間の永享3年(1431年)に出家している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方がある。 永享5年(1433年)10月20日に崩御。宝算57。後小松の崩御によって、院政と治天の君という制度は事実上の終焉を迎えることとなった。これ以降も江戸時代の光格上皇まで院政はたびたび執られたが、あくまで形式上の存在となっていった。
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出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏で南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという 。幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子,瞎驢,夢閨などと号した。戒名は宗純で宗順とも書く。一休は道号である。 6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている。応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧・華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。 応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩,狂歌,書画と風狂の生活を送った。 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。 文明13年(1481年)、酬恩庵おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれる(宮内庁管理の陵墓のため、一般の立ち入りや参拝はできない)。
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