<継体朝>

K501:光厳天皇  後鳥羽天皇 ― 土御門天皇 ― 後草深天皇 ― 光厳天皇 ― 後小松天皇 K601:後小松天皇

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後小松天皇 一休宗純

 日野資教邸で養育される。永徳2年(1382年)4月、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍・足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。
 明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)、明徳の和約により、南朝の後亀山天皇から三種の神器を譲り受ける形で南北朝合一。
 明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、上皇の権勢を継承し、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るった。応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後、南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。
 治天の君としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた細川氏の兵に捕らえられ、翌日、六条河原で斬首された事件が発生している。
 称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子・小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍・足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。
 正長元年(1428年)、称光が危篤となると、6代将軍・足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。
 称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間の永享3年(1431年)に出家している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方がある。
 永享5年(1433年)10月20日に崩御。宝算57。後小松の崩御によって、院政と治天の君という制度は事実上の終焉を迎えることとなった。これ以降も江戸時代の光格上皇まで院政はたびたび執られたが、あくまで形式上の存在となっていった。

 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏で南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという 。幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子,瞎驢,夢閨などと号した。戒名は宗純で宗順とも書く。一休は道号である。
 6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている。応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧・華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
 応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩,狂歌,書画と風狂の生活を送った。
 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
 文明13年(1481年)、酬恩庵おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれる(宮内庁管理の陵墓のため、一般の立ち入りや参拝はできない)。

称光天皇 小川宮

 応永18年(1411年)11月25日、親王宣下を受ける。この3日後に11歳で元服し、加冠役は第4代将軍で内大臣の足利義持が務めた。応永19年(1412年)8月29日に後小松天皇の譲位を受けて即位する。室町幕府の第3代将軍・足利義満とは日野家を挟んで外戚関係にあり、叔母の日野業子は義満の正室だった。『看聞日記』によれば、第4代将軍・足利義持が当初の諱である躬仁の「躬」の字には「身に弓があるのは難がある」として鄂隠慧奯に相談し、「躬」と同音の「実(實)」とすることにした。
 朝廷では後小松上皇が院政を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり、嗣子に恵まれなかった。応永29年(1422年)3月下旬(あるいは4月半ば)以降、天皇は体調を崩し、6月になるとますます病気が進行し、医師も匙を投げるほどであった。義持は9月11日に後小松上皇の代理として伊勢神宮に参拝し、その回復を願っている。12月、称光天皇の病は奇跡的に回復したが、上皇は天皇の後継者の不在を心配して、8月に義持と仙洞御所で相談し、天皇の弟である小川宮を東宮(皇太弟)としていた。しかし、小川宮も称光天皇と同じように奇行が多く、兄弟仲も悪かった。さらに天皇は若く、まだ皇子に恵まれる可能性もあったので、この後継者指名はかえって上皇と天皇の関係を険悪にすることになった。
 応永32年(1425年)2月16日、小川宮は早世し、後継者は再び不在となった。さらに、称光天皇は上皇に対する反発から退位を企てるという行動に出ている。同年6月28日に天皇は内裏を出奔しようとしたため、上皇の要請を受けた義持の仲介で慰留されている。天皇と上皇の確執を調停できるのは義持以外に存在しなかった。
 しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を持明院統光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが僧籍に入っていた)である伏見宮家の伏見宮貞成親王に求めていた。しかし、貞成は54歳の同年4月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとしたことで上皇・天皇間の確執が再燃したため、3ヶ月後の閏6月3日に貞成は出家せざるを得なくなってしまった。
 7月25日、天皇は重病に倒れ、義持や中山定親らが慌てて参内するほどだったという。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行うよう勅定を出している。しかし、義持からこれを聞いた上皇は軽率な行いとして難色を示し同意しなかった。この時は義持の説得で、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した。この時の病気は邪気(風邪)だったという。
 天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で代始改元が認められなかった。改元は16年目に実現するが、その3ヶ月後の正長元年(1428年)7月6日、危篤に陥り、同月20日に28歳で崩御した。崩御後、三従弟にあたり貞成の男子である彦仁王が上皇の猶子となって即位し、後花園天皇となった。後光厳流は断絶となる。

 諱は伝わらず『本朝皇胤紹運録』はただ「皇子」とのみ記す。追号は竜樹寺宮。称光天皇の儲君に治定され、その後継者とされていたが、元服を待たずに死去した。
 はじめは単に「二宮」とだけ呼ばれ、父と同居していた。だが、宮は兄の称光天皇と同様に性格に難があり、かつその気性は兄より荒かった。
 応永27年(1420年)1月3日、屠蘇を飲む御薬という新年祝賀行事の最中、妹の理永女王を「蹂躙」する事件を起こしている。「蹂躙」の内容は不明であるが、原因は「淫事ゆえ」とされるので性的な問題であるらしい。このことで父の勘気をこうむり、仙洞御所を逃げだし、母の養父である日野資教邸に逃げ込んでいる。同年10月には勘気を解かれ、勧修寺経興に預けられた。経興邸が小川亭と呼ばれたのにちなみ、以後は「小川宮」と称された。
 経興邸に移住後、応永29年(1422年)3月に兄の称光天皇が危篤になり、8月に父と足利義持の間で話し合いが行われ、宮は儲君に決まった。その後、兄は病床から回復したが、かねてからの兄弟仲の不仲もあって、宮が儲君とされたことについて父や弟に対する怒りを隠さなかった。
 応永30年(1423年)2月16日、童姿か女房姿に変装して武器を携帯したまま内裏に入ろうと計画していることが経興の通報で発覚し、内裏と仙洞御所で大騒ぎとなった。これは女性関係のもつれによる報復であったとされる。翌日、父は義持に宮をよくよく教訓してほしいと依頼している。
 だが、同月22日には兄が飼育しかわいがっていたヒツジをひどくほしがり、強引に譲り受けておいて、即座に撲殺するという事件を起こしている。これは先日の企てを阻止された報復であったとされており、この一件で兄弟仲の不仲が世間で話題となった。そのようななかでも、義持は父子の間の関係修復に尽力し続けた。
 応永32年(1425年)2月16日、翌月に元服を控えながら、22歳で急死した。あまりにも突然の死に毒殺の噂が立ち、経興が一時犯人として疑われた。
 今出川公行の娘が側室として仕えていたが、子はなく、後光厳天皇の系統は後継者を失い、皇統はやがて崇光天皇の系統へと移っていく。