| K335:亀山天皇 | 亀山天皇 ―(後宇多天皇)― 後醍醐天皇 | K401:後醍醐天皇 |


| リンク | K402・G931 |
| 後醍醐天皇 | 満良親王 |
|---|---|
|
後醍醐天皇は大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子で、諱は尊治。親王のときには帥宮と呼ばれた。 |
南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月、牧宮懐良親王とともに伊勢大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月、大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選や、正平6年/観応2年(1351年)、周防で盛んに令旨を発給している常陸親王は、花園宮の後身であるとする説がある。 |
| 恒良親王 | 成良親王 |
|
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の2度目の挙兵計画が失敗して(元弘の変)鎌倉幕府に捕らえられ、但馬国に配流される。元弘3年(1333年)に太田守延に奉じられ、千種忠顕らとともに足利尊氏の六波羅探題攻撃に参加する。幕府が滅亡し建武の新政が始まると、阿野廉子が産んだ皇子の中で最年長だった恒良は建武元年(1334年)に皇太子に指名される。 |
元弘3年/正慶2年(1333年)、足利尊氏・新田義貞らにより鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政がはじまると、翌建武元年(1334年)、兄の恒良親王が皇太子に指名され、成良は鎌倉府将軍となり、尊氏の弟である足利直義に奉じられて鎌倉幕府崩壊後の関東統治を目的に鎌倉へ下向する。翌年の中先代の乱の際に帰京し、一時征夷大将軍となるが、短期間で停止されている。延元元年/建武3年(1336年)、尊氏によって擁立された光明天皇の皇太子となるが、後に廃される。古典『太平記』では、兄である恒良親王らとともに毒殺されたと伝えられているが、一方『師守記』には興国5/康永3年(1344年)1月6日に「後醍醐院皇子先坊」が死去したとの記述があり、これが成良親王のこととも考えられるため、真相は不明である。 |
| 後村上天皇 | 長慶天皇 |
|
後醍醐天皇の第7皇子で、数多い皇子らの中でただ一人の天皇である。諱は初め義良、即位後に憲良に改めた。1911年(明治44年)、明治政府によって南朝が正統とされたため、歴代天皇として列された。 |
南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、大正時代に入って決定的な在位として評価された。これを受けて宮内省の調査が行われ、1926年(大正15年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。 |
| 海門承朝 | 惟成親王 |
| 元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後に落飾し、臨済宗夢窓派に属する。嵯峨慈済院に籍を置いて、空谷明応(常光国師)に師事した他、絶海中津より外学を受け、その弟子・鄂隠慧奯とも親交があった。宝幢寺住持を経て、応永30年(1423年)から相国寺住持・常徳院主、南禅寺住持、天竜寺雲居庵主を務め、永享11年(1439年)10月南禅寺住持に再任され、嘉吉2年(1442年)相国寺鹿苑院院主に移って僧録を司るが、翌嘉吉3年(1443年)5月9日朝に鹿苑院を出て嵯峨慶寿院へ向かい、夜半示寂したという。享年70余。万里小路時房は承朝の才能を惜しんで、「天性利根、名望無比、匪直也人」と賞賛している。葬地については不詳である。 | 親王宣下を蒙り、文中3年/応安7年(1374年)三品に叙されたというが、具体的な経歴は不明。天授元年/永和元年(1375年)には大宰帥、弘和元年/永徳元年(1381年)には式部卿であり、程なく二品中務卿に至った。元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝合一の際に帰洛した南朝君臣らの中に見える「三宮、御鎧直垂」とは、惟成親王のことであろう。応永10年(1403年)頃までに出家し、臨済宗法燈派に属して梅隠祐常と号する。初め鎌倉へ下向して書記の職を掌り(寿福寺か)、後に上洛して建仁寺に一時在籍したが、やがて美濃へ下向して霊薬山正法寺の信中自敬に師事し、寺内に「樵斎」を構えて隠居した。応永30年(1423年)3月3日に薨去。 |
| 泰成親王 | 師成親王 |
|
正平15年/延文5年(1360年)頃、摂津住吉行宮で誕生する。南朝での詳細な経歴は不明だが、親王宣下を受け、弘和元年/永徳元年(1381年)まで(恐らく天授年間)に大宰帥に任じられた。歌人としては、自邸で探題会を催した他、『新葉和歌集』に5首が入集する。 |
正平16年/康安元年(1361年)、摂津住吉行宮で誕生する。若年から歌才を認められたらしく、天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』には「弁内侍」の隠名で出詠。程なく親王宣下を受けて、兵部卿に任じられる。伯父・宗良親王に付嘱して、『新葉和歌集』撰進の名目的統括者となり、自身も同集に5首入集した。 |
| 説成親王 | 護良親王 |
|
南朝での詳しい経歴は不明ながら、親王宣下を受けた後に上野太守に任じられ、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』には4首(流布本には3首)が入集する。元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に南北朝合一を迎えると、後亀山天皇・三宮(東宮惟成親王か)に同行して吉野より入洛を果たした。 |
6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。 |
| 興良親王 | 尊良親王 |
|
護良親王の皇子は興良親王と陸良親王が知られているが、両者が同一人物であるという説もある(『井伊之谷宮略記』)。大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。 |
幼少時は吉田定房に養育された。嘉暦元年(1326年)に元服し、中務卿に任じられた。元徳3年(1331年)1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。 |
| 守永親王 | 宗良親王 |
| 興国4年/康永2年(1343年)、常陸合戦の戦況が好転しない最中に吉野から下向し、5月常陸関城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月に関城・大宝城が陥落した後は、残兵に守られながら陸奥に逃れ、北畠顕信の宇津峰城に入ったとみられる。正平2年/貞和3年(1347年)7月、奥州管領・吉良貞家,畠山国氏ら北軍の攻撃を受け、9月に宇津峰城が陥落すると、顕信に奉じられて一旦出羽へ逃れた。その後に足利一族間の内訌(観応の擾乱)が地方にも波及して、吉良・畠山両管領の分裂が激しくなると、正平6年/観応2年(1351年)10月、伊達宗遠や田村庄司の一族を率いて多賀国府を攻撃して奪回し、11月には吉良貞家を名取川に破って伊具館へ敗走させた。正平7年/観応3年(1352年)閏2月、尊氏の党を討たんとする顕信に奉じられて伊達郡へ出陣したが、3月その隙を突いた吉良貞経によって国府が再び占領されたため、顕信とともに三沢城から大波城へ逃れ、やがて宇津峰城に籠城する。以来1年有余に及ぶ貞家との攻防戦を経て、翌正平8年/文和2年(1353年)5月に宇津峰城が陥落すると、顕信・守親父子に奉じられて再び出羽へ逃れた。しばらくは出羽の各地に潜伏して奥羽南軍の統率に当たったとみられるが、以後の消息は明らかでない。 |
妙法院に入り正中2年(1325年)妙法院門跡を継承。続いて元徳2年(1330年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。 |
| 恒性 | 無文元選 |
|
大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱で隠岐に配流された後醍醐天皇に連座し、元弘2年/正慶元年(1332年)に還俗させられた上で越中国射水郡二塚にある現在の気多社(悪皇寺宮)に流されて幽閉された。 |
父の後醍醐天皇が崩御した翌年の興国元年/暦応3年(1340年)に建仁寺で出家し、明窓宗鑑・雪村友梅などに師事した。興国4年/康永2年(1343年)、中国の元に渡ることを志し、博多聖福寺の無隠元晦に参禅。その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国した後は、教化のため各地を巡国し、遠江国方広寺などを開創している。 |
| 懐良親王 | |
|
後醍醐天皇は延元元年/建武3年(1336年)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島へ渡り、熊野水軍の援助を得て数年間滞在した。 |