<継体朝>

K335:亀山天皇  亀山天皇 ―(後宇多天皇)― 後醍醐天皇 K401:後醍醐天皇



リンク K402G931
後醍醐天皇 満良親王

 後醍醐天皇は大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子で、諱は尊治。親王のときには帥宮と呼ばれた。
 正安3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴い立太子し、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行ったが、元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。
 正中元年(1324年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題が天皇の側近・日野資朝を処分する正中の変が起こる。公式判決では、後醍醐は無罪として釈放された。
 元弘元年(1331年)、倒幕計画が側近・吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。笠置山に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。後醍醐天皇は鎌倉幕府の取り調べに対し、「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)」なので、許してもらいたいと訴えたという。
 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子・量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は謀反人とされ、翌元弘2年/正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内の楠木正成,播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年/正慶2年閏2月24日(1333年4月9日)、名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する。5月27日、後醍醐は圓教寺へ御幸し、大講堂に参籠して幕府滅亡を祈願した。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
 元弘3年6月5日(1333年7月17日)に帰京した後醍醐天皇は、建武の新政を開始する。まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とし(数ヶ月後に解任)、足利高氏を戦功第一とし自身の諱「尊」を与えて鎮守府将軍や参議などに任じた。同年中に記録所,恩賞方,雑訴決断所,武者所,窪所などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子・北畠顕家を東北・北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟・足利直義を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。
 翌年(1334年)に入ると、まず1月23日、父の後宇多天皇が大覚寺統嫡流に指定した甥の邦良親王の血統ではなく、実子の恒良親王を皇太子に立てた。同年1月29日(1334年3月5日)、簒奪者王莽を倒し後漢を開いた光武帝の元号の建武の故事により、元号を建武(けんむ)に改元。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に蟄居となった。
 建武2年(1335年)、北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えると、これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じた。義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の院宣を得た後に再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に湊川の戦いで勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
 足利軍が入京すると、後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、『太平記』の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らずに吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。
 なお、結果的には敵同士になってしまった足利尊氏からも敬愛されており、尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また、足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現・慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した。 

 南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月、牧宮懐良親王とともに伊勢大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月、大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選や、正平6年/観応2年(1351年)、周防で盛んに令旨を発給している常陸親王は、花園宮の後身であるとする説がある。 
恒良親王 成良親王

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の2度目の挙兵計画が失敗して(元弘の変)鎌倉幕府に捕らえられ、但馬国に配流される。元弘3年(1333年)に太田守延に奉じられ、千種忠顕らとともに足利尊氏の六波羅探題攻撃に参加する。幕府が滅亡し建武の新政が始まると、阿野廉子が産んだ皇子の中で最年長だった恒良は建武元年(1334年)に皇太子に指名される。
 足利尊氏が新政から離反し、建武3年(1336年)の湊川の戦いに勝利して京都へ迫ると、比叡山に逃れていた恒良は後醍醐天皇から皇位と三種の神器を譲られ、異母兄の尊良親王とともに新田義貞・義顕父子に奉じられて北陸統治を名目に越前国金ヶ崎城に下向する。北陸での恒良は各地の武将に綸旨を発給しており、自らを天皇と認識していたことが知られる。しかし、後に京を脱出した後醍醐が吉野で南朝を開いたことにより、恒良の皇位は無意味となり、恒良は歴代天皇には数えられていない。
 翌年、足利方の高師泰・斯波高経率いる軍勢により落城すると、義貞は脱出するが、尊良・義顕は自害し、恒良は捕らえられ京都へ護送される。『太平記』では花山院第に幽閉され毒殺されたと伝えられる。 

 元弘3年/正慶2年(1333年)、足利尊氏・新田義貞らにより鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政がはじまると、翌建武元年(1334年)、兄の恒良親王が皇太子に指名され、成良は鎌倉府将軍となり、尊氏の弟である足利直義に奉じられて鎌倉幕府崩壊後の関東統治を目的に鎌倉へ下向する。翌年の中先代の乱の際に帰京し、一時征夷大将軍となるが、短期間で停止されている。延元元年/建武3年(1336年)、尊氏によって擁立された光明天皇の皇太子となるが、後に廃される。古典『太平記』では、兄である恒良親王らとともに毒殺されたと伝えられているが、一方『師守記』には興国5/康永3年(1344年)1月6日に「後醍醐院皇子先坊」が死去したとの記述があり、これが成良親王のこととも考えられるため、真相は不明である。
後村上天皇 長慶天皇

 後醍醐天皇の第7皇子で、数多い皇子らの中でただ一人の天皇である。諱は初め義良、即位後に憲良に改めた。1911年(明治44年)、明治政府によって南朝が正統とされたため、歴代天皇として列された。
 正慶2年(1333年)、父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始めると、同年、後醍醐天皇は鎌倉幕府将軍・守邦親王に擁立された光厳天皇を廃した。同年、義良親王は北条氏の残党の追討と東国武士の帰属を目的に後醍醐天皇の側近(寵臣)の北畠親房および北畠親房の長男である公卿・陸奥守北畠顕家に奉じられて陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城へと向かい、建武元年(1334年)5月、多賀城において親王となった。義良親王は多賀城で、東北地方における南朝に味方する武将を束ね、東北地方における後醍醐天皇の小朝廷の奥羽将軍府を創設した。奥羽将軍府の管轄エリアは東北地方および関東地方の北部3ヶ国(下野国・上野国・常陸国)を含んでいたため、事実上の東日本小朝廷であった。このとき後醍醐天皇の南朝の諸大名の中で武家のトップとなったのが、伊達行朝と結城宗広・結城親朝親子の3人だった。
 足利尊氏が後醍醐天皇の建武新政から離反し延元元年/建武3年(1336年)1月に京都を占領すると、建武2年(1335年)12月、後醍醐天皇の側近の北畠親房・顕家父子や伊達行朝をはじめとする陸奥将軍府の武将達と共に陸奥国多賀城を進発し、足利尊氏を追討するため京都方面へ軍を進めた。翌年の延元元年/建武3年(1336年)1月、義良親王および陸奥守北畠顕家が率いる奥羽将軍府軍は京都で足利尊氏軍を破り、尊氏を京都から九州(鎮西)へ敗走させた。同年3月義良親王は元服し、三品陸奥太守に叙任された。しかし、延元元年/建武3年(1336年)、九州落ちした足利尊氏・直義兄弟が湊川の戦いで南朝の楠木正成・新田義貞に勝利し再び京都を奪い取ると、後醍醐天皇に廃された光厳天皇の弟である持明院統の光明天皇を擁立し北朝を樹立した。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立する。
 翌年の延元2年/建武4年(1337年)、主力軍が不在となっていた多賀城の奥羽将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため、延元2年/建武4年(1337年)1月8日、義良親王および陸奥守北畠顕家らは奥羽将軍府を伊達行朝の領地内にある福島県霊山に遷した。同年8月、東北地方軍を率いた義良親王および北畠顕家は今度は霊山城から再び京都目指して軍を進め、同年12月、奥羽将軍府軍は北朝軍を破って鎌倉を奪還した。翌年の延元3年/暦応元年(1338年)1月、義良親王の奥羽将軍府軍はさらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破り、伊勢・伊賀方面に転進したあと、後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。
 そうした状況のなかの同年の延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され室町幕府が成立した。延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)、南朝の北畠顕家は室町幕府執事の高師直・師泰兄弟との石津の戦いに敗れ、戦死した。更に同年の閏7月2日、南朝の新田義貞も越前国で北朝軍との藤島の戦いに敗れ戦死した。同年9月、義良親王は宗良親王と共に北畠親房および戦死した北畠顕家の弟である北畠顕信に奉じられ、伊達行朝・結城宗広・中村経長らの軍船のもと、伊勢国大湊から三たび陸奥国を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。延元4年/暦応2年(1339年)3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく皇太子となり、8月15日、後醍醐天皇の譲位を受け、後村上天皇として即位した。
 天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に綸旨を発し、南朝の安寧祈願や所領安堵・給付、軍勢催促や褒賞を行った。正平3年/貞和4年(1348年)1月、足利方の高師直に吉野を襲撃され、天皇は紀伊花園へ一旦難を避けたが、後に大和賀名生へ移った。正平5年/観応元年(1350年)、足利一族間の内訌が激化すると(観応の擾乱)、先に足利直義が南朝に降伏し、翌年(1351年)10月には尊氏が同じく南朝に降伏した(正平一統)。天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、11月には北朝・崇光天皇を廃位するとともに三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収し、皇太子の直仁親王も廃太子とした。
 南朝は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出た。正平7年/文和元年(1352年)2月に賀名生を発し、河内東条を経て摂津住吉・山城男山と進み、七条大宮の戦いで楠木正儀が足利義詮を破って京の回復に成功した。一統は破綻して義詮は近江に逃亡し、天皇は光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王を男山に連行した。3月に足利方の反撃に遭って京を放棄し、男山に立て籠もるが、5月には義詮の軍に敗れて辛うじて脱出、賀名生に帰還した。正平9年/文和3年(1354年)3月には三上皇と直仁親王を河内天野の金剛寺塔頭観蔵院に入れると、10月には自身も金剛寺に移って塔頭摩尼院を行宮と定めた。正平10年/文和4年(1355年)1月、南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫し、しばらくして光明上皇は京都に返した。
 正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返し、正平14年/延文4年(1359年)12月、自身も観心寺に行宮を移し、翌年9月には住吉まで北上。正平16年/康安元年(1361年)幕府の政争に敗れて失脚した執事・細川清氏の帰順を受け、12月8日に四条隆俊・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、同月26日には撤退している。南朝の力は既に弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/貞治6年(1367年)4月に勅使・葉室光資をして幕府との和睦交渉が行われたものの、武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/応安元年(1368年)3月11日に住吉大社宮司・津守氏の住之江殿にて崩御した。宝算41。

 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、大正時代に入って決定的な在位として評価された。これを受けて宮内省の調査が行われ、1926年(大正15年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。
 生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが、立太子に関しては確証を得ない。正平23年/応安元年(1368年)3月、26歳にして摂津の住吉行宮で践祚し、間もなく弟の熙成親王を東宮とした。
 天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶している。
 践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、同年(1368年)12月吉野に後退し、正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺に移った。南朝軍の主力として正儀の同族の和田正武と橋本正督を起用し、それぞれを河内国主・和泉国主に任じた。しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった。文中3年/応安7年(1374年)冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている。
 天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺に移り、弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。
 譲位の時期は判然としないが、朝要分の免除に関して利生護国寺に下した弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され、この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。譲位に至った背景には、弘和2年/永徳2年(1382年)閏1月に正儀が南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる。
 譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があるが、元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である。『大乗院日記目録』によると、応永元年(1394年)8月1日に52歳で崩御。晩年の地については諸説ある。 

海門承朝 惟成親王
 元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後に落飾し、臨済宗夢窓派に属する。嵯峨慈済院に籍を置いて、空谷明応(常光国師)に師事した他、絶海中津より外学を受け、その弟子・鄂隠慧奯とも親交があった。宝幢寺住持を経て、応永30年(1423年)から相国寺住持・常徳院主、南禅寺住持、天竜寺雲居庵主を務め、永享11年(1439年)10月南禅寺住持に再任され、嘉吉2年(1442年)相国寺鹿苑院院主に移って僧録を司るが、翌嘉吉3年(1443年)5月9日朝に鹿苑院を出て嵯峨慶寿院へ向かい、夜半示寂したという。享年70余。万里小路時房は承朝の才能を惜しんで、「天性利根、名望無比、匪直也人」と賞賛している。葬地については不詳である。   親王宣下を蒙り、文中3年/応安7年(1374年)三品に叙されたというが、具体的な経歴は不明。天授元年/永和元年(1375年)には大宰帥、弘和元年/永徳元年(1381年)には式部卿であり、程なく二品中務卿に至った。元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝合一の際に帰洛した南朝君臣らの中に見える「三宮、御鎧直垂」とは、惟成親王のことであろう。応永10年(1403年)頃までに出家し、臨済宗法燈派に属して梅隠祐常と号する。初め鎌倉へ下向して書記の職を掌り(寿福寺か)、後に上洛して建仁寺に一時在籍したが、やがて美濃へ下向して霊薬山正法寺の信中自敬に師事し、寺内に「樵斎」を構えて隠居した。応永30年(1423年)3月3日に薨去。
泰成親王 師成親王

 正平15年/延文5年(1360年)頃、摂津住吉行宮で誕生する。南朝での詳細な経歴は不明だが、親王宣下を受け、弘和元年/永徳元年(1381年)まで(恐らく天授年間)に大宰帥に任じられた。歌人としては、自邸で探題会を催した他、『新葉和歌集』に5首が入集する。
 「この親王は皇子方の中で取分け、将来帝位に登られるべき方」と花山院長親が讃えたとおり、早くから皇位継承の予定者と目されていたらしく、実際に泰成親王を東宮(皇太子)とする系図もいくつか伝存する。ただし近年、『吉田家日次記』の記事によると、「南朝春宮」は帥宮と称された泰成親王の兄の惟成親王のことと考えられ、系図とは齟齬を来たしている。何れにしても、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後は入洛し、後亀山上皇を助けて嵯峨に閑居していたと思われる。応永19年(1412年)1月参賀のため幕府御所に臨んだ「大覚寺殿帥宮」とは泰成親王の可能性がある。同30年(1423年)には既に故人であった。  

 正平16年/康安元年(1361年)、摂津住吉行宮で誕生する。若年から歌才を認められたらしく、天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』には「弁内侍」の隠名で出詠。程なく親王宣下を受けて、兵部卿に任じられる。伯父・宗良親王に付嘱して、『新葉和歌集』撰進の名目的統括者となり、自身も同集に5首入集した。
 やがて出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵と号したが、終焉の地をめぐっては伊勢説が有力である。南陽寺で薨去したと考えられ、現在も近隣の民家には師成の墓と伝える五輪塔が残る。
 上記の活動から察するに、禅僧の経歴を踏まずに、余生を和歌の道に託したのだろうが、『新葉集』以後の歌作は1首も残っていない。しかし、師成の書写した『新葉集』や『李花集』は大内氏に相伝され、その文芸活動に少なからず影響を与えた。師成の周防下向説が生じた背景には、このような事情も一端にあろう。

説成親王 護良親王

 南朝での詳しい経歴は不明ながら、親王宣下を受けた後に上野太守に任じられ、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』には4首(流布本には3首)が入集する。元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に南北朝合一を迎えると、後亀山天皇・三宮(東宮惟成親王か)に同行して吉野より入洛を果たした。
 在京中の動静に関しても史料がないが、応永15年(1408年)、吉野河上郷の在地勢力が上野宮に与同して背いたため、吉水院の惣郷によって鎮圧された旨が『吉水神社文書』に見える。これは、同年5月の足利義満薨去を受けて親王が起こした反幕行動の一端を示したもので、合一後の南朝皇胤による決起としては最も早い例となろう。ところが、同22年(1415年)、伊勢国司・北畠満雅による挙兵に際してはこれに同調せず、むしろ幕府との間に立って調停に動いていることから、必ずしも反幕姿勢を堅持していた訳ではないようである。応永30年(1423年)8月に子の聖淳が足利義持の計らいで相応院に入室した。これに対しては抵抗する気運もあったらしく、11月に上野宮青侍の中村某が斬首されている。同32年(1425年)以後の消息は不明である。

 6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。
 正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となる。後醍醐天皇の画策で2度に渡り天台座主となるが、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったという。
 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐,村上義光らとともに十津川・吉野・高野山などを転々として2年に渡り幕府軍と戦い続けた。
 しかし、討幕が成った後、その功労者・足利尊氏と相容れず、信貴山を拠点にして上洛せず尊氏を牽制した。後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍・兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後の後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させた。
 『太平記』によると、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫・阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めて辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた名和長年,結城親光らに捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれたと述べられている。
 翌年、北条時行を奉じた諏訪頼重による中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、頼重らに奉じられることを警戒した直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった。一方で鎌倉に置かれていた成良親王は京都に無事送り届けられていることから、直義による護良親王殺害は問題とされることはなかったと見られている。親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落した。
 『太平記』では、直義の家臣・淵辺義博に殺害されて首を刎ねられた護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南方に弔われたと伝えられている。南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ、後に父母の菩提を弔った。さらに護良親王の妹が後醍醐天皇の命を受けて、北鎌倉にある東慶寺の5代目の尼として入り、用堂尼と呼ばれた。現在の横浜市戸塚区柏尾町には、殺害された親王の御首を側女が密かに持ち出し洗い清め奉じたとされる「護良親王の首洗い井戸」があり、近隣には、その御首を地下に葬ったと伝えられる王子神社がある。また山梨県都留市朝日馬場にある石船神社では護良親王の首級と伝えられる首が祀られている。南方(雛鶴姫)が鎌倉から逃げる際に持参し、姫も産んだばかりの王子とともにこの地で亡くなったとされる。山梨県内ではこのほか、小室浅間神社境内にある桂の大木の根本に親王の首が埋葬されたとも伝えられている。

興良親王 尊良親王

 護良親王の皇子は興良親王と陸良親王が知られているが、両者が同一人物であるという説もある(『井伊之谷宮略記』)。大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。
 延元元年/建武3年(1336年)に建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇に供奉して山門の指揮官を務めたが、8月八幡山に移り、11月には和泉巻尾山に拠って紀伊粉河寺へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受け、次の後村上天皇が践祚すると程なく征夷大将軍に補任された。時に東国では常陸合戦の最中であり、その在地武士の結集を図る必要性から、興国2年/暦応4年(1341年)夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月城主・小田治久が武家方へ降ったため、春日顕時に奉じられて大宝城に移るも、戦況が好転しない下での籠城を余儀なくされ続け、興国4年/康永2年(1343年)春には小山城に移り、11月に本拠の関城・大宝城が陥落すると西走した。翌年(1344年)頃には駿河安倍城の狩野貞長の許に逗留していたとみられる。
 吉野へ戻った後は再び和泉に現れ、正平3年/貞和4年(1348年)1月四條畷の敗戦の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/観応2年(1351年)7月南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年(1352年)、則祐が変心した後は京都に送られて幽閉されたが、やがて但馬の本庄・波多野氏ら南朝勢により救出されて高山寺城に入り、但馬・丹波両国を制した。さらに山陽道に進出し、摂津甲山で則祐と交戦するも、本庄氏の戦死で宮方軍は敗れ、興良も河内に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれたが、正平15年/延文5年(1360年)4月、南朝に帰順した赤松氏範を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、興良は氏範と共に将軍・足利義詮に通じて銀嵩(銀峯山)で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白(教基か)を大将軍としてこれに抗戦させたため、興良の兵は離散し、興良も氏範により南都へ落ち延びさせられたというが、以後の消息は明らかでない。興良の墓と伝えるものには、兵庫県姫路市香寺町須加院にある親王塚や奈良県野迫川村北股にある田村塚(将軍塚)などが知られている。

 幼少時は吉田定房に養育された。嘉暦元年(1326年)に元服し、中務卿に任じられた。元徳3年(1331年)1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。
 元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし、脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。
 1335年(建武2年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。
 延元2年/建武5年(1337年)1月、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に義顕や他の将兵と共に自害した。自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという。  

守永親王 宗良親王
 興国4年/康永2年(1343年)、常陸合戦の戦況が好転しない最中に吉野から下向し、5月常陸関城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月に関城・大宝城が陥落した後は、残兵に守られながら陸奥に逃れ、北畠顕信の宇津峰城に入ったとみられる。正平2年/貞和3年(1347年)7月、奥州管領・吉良貞家,畠山国氏ら北軍の攻撃を受け、9月に宇津峰城が陥落すると、顕信に奉じられて一旦出羽へ逃れた。その後に足利一族間の内訌(観応の擾乱)が地方にも波及して、吉良・畠山両管領の分裂が激しくなると、正平6年/観応2年(1351年)10月、伊達宗遠や田村庄司の一族を率いて多賀国府を攻撃して奪回し、11月には吉良貞家を名取川に破って伊具館へ敗走させた。正平7年/観応3年(1352年)閏2月、尊氏の党を討たんとする顕信に奉じられて伊達郡へ出陣したが、3月その隙を突いた吉良貞経によって国府が再び占領されたため、顕信とともに三沢城から大波城へ逃れ、やがて宇津峰城に籠城する。以来1年有余に及ぶ貞家との攻防戦を経て、翌正平8年/文和2年(1353年)5月に宇津峰城が陥落すると、顕信・守親父子に奉じられて再び出羽へ逃れた。しばらくは出羽の各地に潜伏して奥羽南軍の統率に当たったとみられるが、以後の消息は明らかでない。  

妙法院に入り正中2年(1325年)妙法院門跡を継承。続いて元徳2年(1330年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
 父・後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野の南朝方として活躍をするようになる。暦応元年/延元3年(1338年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊より陸奥国府へ渡ろうとするが、座礁により遠江国に漂着し、井伊谷の豪族・井伊道政のもとに身を寄せる。
 暦応3年/興国元年(1340年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国の寺泊や越中国などに滞在した後、興国5年/康永3年(1344年)に信濃国伊那郡の豪族・香坂高宗に招かれ、大河原に入った。宗良はこの地を文中2年/応安6年(1373年)までの約30年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。拠点となった大河原は、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していたため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達が逃げ込むことも多かった。
 観応2年/正平6年(1351年)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には新田義興とともに鎌倉を占領する。翌文和元年/正平7年(1352年)には征夷大将軍に任じられたが、結局鎌倉を占領し続けることはできず、越後で再起を図るも振るわず、ふたたび大河原の地に戻る。
 大河原の地でなおも信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが、応安2年/正平24年(1369年)には信濃守護を兼ねる関東管領・上杉朝房の攻撃を受け、文中3年/応安7年(1374年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻った。
 晩年については、天授4年/永和4年(1378年)に大河原に一度戻ったことが判明しているが、弘和元年/永徳元年(1381年)に吉野に戻って『新葉和歌集』を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
 終焉場所については、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされているが、一方、「南朝紹運録」や「南山巡狩録」では、元中2年/至徳2年(1385年)8月10日に遠江国井伊城で薨去したと記されている。このほかにも入野谷郷説,浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説,美濃国坂下説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。 墓も多く存在する。
 宗良親王の皇子である尹良親王についても歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多いが、南朝方として父の後を継いで各地を転戦、源氏姓を賜ると共に征夷大将軍に任じられたと伝えられる。その末裔を称する大橋氏が、北畠顕家を奉る霊山神社の氏子総代となっている。  

恒性 無文元選

 大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱で隠岐に配流された後醍醐天皇に連座し、元弘2年/正慶元年(1332年)に還俗させられた上で越中国射水郡二塚にある現在の気多社(悪皇寺宮)に流されて幽閉された。
 しかし、翌年には後醍醐天皇が隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げる。出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしているという噂を聞きつけた執権・北条高時は、皇子の北陸での挙兵を警戒し、越中守護・名越時有に皇子の殺害を命じる。時有の甥・名越貞持によって、皇子は側近であった勧修寺家重,近衛宗康,日野直通と共に暗殺された。なお、名越氏もこの約1週間後に放生津城で、反幕府側にまわった御家人勢に囲まれて滅亡している。

 父の後醍醐天皇が崩御した翌年の興国元年/暦応3年(1340年)に建仁寺で出家し、明窓宗鑑・雪村友梅などに師事した。興国4年/康永2年(1343年)、中国の元に渡ることを志し、博多聖福寺の無隠元晦に参禅。その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国した後は、教化のため各地を巡国し、遠江国方広寺などを開創している。


懐良親王

 後醍醐天皇は延元元年/建武3年(1336年)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島へ渡り、熊野水軍の援助を得て数年間滞在した。
 その後、暦応4年/興国2年(1341年)頃に薩摩に上陸。谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、貞和4年/正平3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏,仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。
 観応元年/正平5年(1350年)、観応の擾乱起きると、直義の養子・足利直冬が九州へ入る。筑前の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府,直冬,南朝3勢力の鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦いで一色軍に大勝し、さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。
 一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光ら南朝方は延文4年/正平14年(1359年)の筑後川の戦い(大保原の戦い)でこれを破り、康安元年/正平16年(1361年)には九州の拠点である大宰府を制圧する。
 幕府は、貞治6年/正平22年(1367年)には管領・細川頼之が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣する。その後は今川了俊に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定される。懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。