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第99代天皇(在位:1383年冬~1392年11月19日。諱は熙成。出生・生い立ちは明らかでないが、兄の長慶天皇が践祚した正平23年/応安元年(1368年)3月から8月までの間に立太子され、東宮(皇太弟)として既に天皇の政務を補佐していたと思われる。弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は吉野ではなく栄山寺(奈良県五條市)であった。在位の9年間は南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍・足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。 元中9年/明徳3年(1392年)、和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。10月には義満から吉田兼熙を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都大覚寺に到着。同月5日に三種の神器のみが大覚寺から北朝の後小松天皇の土御門内裏に移された。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮(惟成親王か)は事実上廃太子された。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している。合一後、大覚寺を仙洞とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった。 明徳5年(1394年)2月6日、天竜寺にて初めて義満と面会し、その結果、同月23日に「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇の尊号を贈られた。その詔書は、延元元年/建武3年(1336年)11月2日に北朝の光明天皇が南朝の後醍醐天皇に対して太上天皇号を贈った例に準ずるものとされたが、幕府が旧北朝と後亀山双方の体面を保つために採用した苦肉の策であった。 応永4年(1397年)11月27日、尊号および兵仗を辞退し、義満もこれを了承。その後は出家を遂げて金剛心と号し、ひたすら隠遁生活に入る。それでも、阿野実為・公為父子や六条時熙など、わずかな公家が側近として仕えており、吉田兼熙・兼敦父子が神道を進講することもあった。 ところが、応永17年(1410年)11月27日、突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。この事件に関して、『看聞日記』には生活上の困窮によるものとするが、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。しかし、その甲斐もなく、応永19年(1412年)に称光天皇が践祚。 応永22年(1415年)、これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、応永23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたため、所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。 応永31年(1424年)4月12日、雷鳴のとどろく夜に大覚寺で崩御。宝算は75とも78ともいう。後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こした。 長らく皇位が否定されてきたが、1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。
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南北朝合一の際、北朝側は後亀山上皇の皇子を後小松天皇の皇太子とする約束をしたが、後小松天皇は実際には南朝側に皇位を継がせることを快く思っていなかった。そのため、応永17年(1410年)、後亀山上皇,良泰親王らは吉野に逃亡する。その理由としては経済的理由を自ら挙げているが、後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかという説がある。 応永19年(1412年)8月に北朝側の称光天皇が践祚している。その後、応永23年(1416年)に室町幕府の要請で、後亀山上皇や良泰親王ら諸皇子は大覚寺に戻ったものの、良泰親王は再び京を離れている。応永21年(1414年)、伊勢国司・北畠満雅は明徳の和約が無視されていることで挙兵した際、良泰親王を奉じ、幕府に両統迭立の順守を要求したとされる。正長元年(1428年)、満雅の2度目の挙兵の際に奉じられた小倉宮を小倉宮聖承ではなく良泰親王とする説もあるが、伊勢で擁立されたのは聖承のほうであると考えられている。満雅が幕府との戦いで戦死すると、その跡を継いだ北畠教具からは「連年の兵戦で国内が疲弊しているため、幕府と和睦して時を稼ぎたい」と支援に難色を示されている。 嘉吉3年(1443年)5月7日、吉野近くの多武峯周辺にある小倉山で死亡したとされる。死亡場所は川上村近くの東川であったともされる。享年73歳。ただし、この没年月日は小倉宮聖承と同じであり、これに関しても検証を要する。
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