<桓武平氏>高望王系

H466:原 頼常  平 高望 ― 平 忠常 ― 原 頼常 ― 原 胤高 H467:原 胤高


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原 胤高 原 胤氏

 頼常の子孫が胤惟で途絶えると、千葉氏胤の4男である胤高が胤惟の娘と結婚する。便宜上、胤高以前が前期原氏、以後が後期原氏のように分けられいている。
 応永2(1395)年、小弓柏崎へ報恩山宗徳寺を建立し、聖山志賢を開山に招いたという。宗徳寺は天正3(1575)年、原式部大夫胤栄によって印旛郡臼井村に移され、長谷山宗徳寺と改められた。また、同年には、宮和田郷地頭に発給した文書が神崎神社に遺されている。
 応永13(1406)年11月、私領の椎名郷から香取社造営の造営負担として三貫八百二十五文を納めたとあり、原氏は椎名郷にも進出していたことがうかがえる。
 その後、胤高の活躍は見られず、応永33(1426)年12月25日に没したという。ただし、『本土寺過去帳』には某年6月8日に小弓城下の野田の戦いで討死したと記されている。 

 弥富原氏二代当主。原信濃守胤良の子。兄の原左衛門尉(朗珍),原右京亮胤致(朗嶺)が康正元(1455)年11月13日に千田庄内での戦いで戦死したため、家督を継いだ。この頃、千葉家内では、ともに千田庄を本貫地とする千葉家重臣の原氏と円城寺氏の対立が激化し、この年、原越後守胤房は千葉宗家一門の長老・千葉馬加陸奥入道常義(馬加康胤)を担いで、円城寺氏を重用する千葉介胤直入道に謀反を起こした。馬加陸奥入道は親古河公方派である一方で、千葉介胤直入道は古河公方・足利成氏と対立しており、千葉家は真っ二つに分裂した。
 戦いは亨徳4(1455)年8月12日、千田庄志摩城において千葉介胤宣が自刃し、円城寺下野守尚任をはじめとする円城寺氏一党が討死、15日には千田庄妙光寺に追い詰められた千葉介胤直入道が自刃して果て、馬加陸奥入道・原越後守勢の勝利で終わった。
 しかし、幕府は千葉宗家の内紛について上杉氏からの報告を受けていたものか、古河公方に加担する馬加陸奥入道・原越後守追討のために、10月頃、幕府奉公衆で千葉一族の東左近将監常縁を下総国に派遣した。常縁は歌人として著名だが、武人としても有能であり、下総に着くと、まず東氏発祥の東庄に移り、東大社で戦勝祈願を済ませた。そして、大須賀左馬助,国分五郎ら千葉一族の協力を得て、原氏の本拠・千田庄に馳せ向かい、11月13日に原左衛門朗珍,原右京亮朗嶺を討ち取った。
 常縁は千田庄を攻め落とすと、11月24日には馬加陸奥入道の居城・馬加城に攻め寄せ、城から討って出た原越後守胤房の軍勢を一両日の戦いののち破った。こののち、胤房は千葉へ逃亡して姿を消した。胤氏がその戦いに参戦していたかは不明だが、彼は生き延びていた。
 文正元(1466)年6月3日、幕府より松渡城郭(松戸城)の守りを命じられた。文明2(1470)年某月12日、亡くなった。

原 親幹 原 虎胤

 千葉親胤から一字を受けて「親幹」と名乗るが、後に父の若狭守や同族の原胤長とともにその暗殺に加担したと言われている。その後、森山城主だった海上富胤(千葉胤富)が千葉氏の家督を継承したために代わりに親幹に森山城が与えられたという。以後、胤富・邦胤の2代にわたって忠節を尽くしたために両者からの信頼を得て、原氏宗家の原胤貞、一門の原胤長と共に権勢を競った。また、天正10年(1582年)には国分胤憲の反乱を鎮圧するなど、下総東部において勢力を築いた。
 ところが、天正13年(1585年)に邦胤が不慮の死を遂げると、原氏宗家の原胤栄が3歳の嫡男・千葉重胤に代わって北条氏から新当主を迎え、重胤を小田原城への人質にしようとする。だが、親幹は激怒して森山城に帰って息子邦房とともに挙兵の準備を進めた。これに対して原胤栄,原胤長・原邦長親子らは小田原城の北条氏直に親幹討伐の要請を行い、氏直も11月には自ら下総に出兵して本佐倉城を占拠した。この事態を憂慮した氏直の父・北条氏政,千葉氏重臣海保氏の奔走によって、最終的に親幹は降伏・出家している。ただし、その後に千葉氏に入嗣した千葉直重のもとで息子・邦房が実権を握っているために、氏政と親幹の間に何らかの政治的取引があった可能性はある。
 その後、親幹は森山城に滞在して本佐倉と森山を往復する邦房に代わって同城を守備している。この頃、眼病を患っていたらしく、北条氏政から豊臣氏の侵攻に備えて森山城の警備の強化の指示とともに親幹の病状を見舞う書状が出されている。こうした軍事的緊張の中での親幹(若狭入道)の活動は、天正17年(1589年)までは活発であるが、この年を最後に姿を消している。翌年の豊臣秀吉による小田原征伐に際して、森山城を東氏一族が守り、原邦房は本佐倉城で徳川軍に降伏したことが確認できるものの、邦房と一緒に活動していたはずの親幹の動向は不明である。このため、この時には既に病没していた可能性が高いと考えられている。

 武田の五名臣および武田二十四将の一人。明応6年(1497年)、原友胤の子として生まれる。『甲斐国志』によれば、元は下総国千葉氏支流である下総国衆・臼井原氏の一門であるという。永正10年(1513年)、小弓城合戦にて小弓公方・足利義明軍に敗北。居城である小弓城を奪われ、父・原友胤とともに甲斐に落ち延び、武田信虎の家臣となったとされている。ただし、実際に足利義明による小弓城攻めは永正14年(1517年)の出来事であるため、史実との齟齬が指摘される。
 友胤は信虎の下で功績を挙げ、虎胤も主君・信虎から「虎」の一字を貰い受けて足軽大将として活躍した。大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川軍の福島正成(北条綱成の実父)を討ち取る功績を挙げる。
 信虎追放後は信玄に仕える。一般には武田二十四将の中に数えられることも多く、また甲陽五名臣としても名があげられている。なお、彼の子の康景は同じく甲陽五名臣の一人・横田高松の養子となっている。信濃の小笠原氏との戦いで活躍し、平瀬城の城代を任されるなど重用されていた。天文22年(1553年)、宗旨問題(虎胤は日蓮宗信者であった)で信玄に浄土宗に改宗するように迫られて拒絶したため、一時期甲斐を追放され、相模北条氏に身を寄せ、善得寺の会盟の際に帰参した。以後引き続き武田氏の将として活躍する。永禄2年(1559年)に信玄が剃髪すると、同じく剃髪して清岩と号した。
 永禄4年(1561年)の信濃国割ヶ嶽城攻略で負傷し、同年に行われた第4次川中島の戦いには参戦せず、以後は第一線を退いている。永禄7年(1564年)1月28日に病死。享年68。
 武勇名高い猛将で鬼美濃,夜叉美濃と渾名されて畏怖されたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたとする逸話が残る、情け深い大将でもあったと伝わる。子孫である現在の原家には、信玄から賜ったと伝えられる軍配が400年以上にわたり家宝として受け継がれている。

原 胤従 原 胤虎

 武田勝頼に仕えた目付役鎗支配。八王子千人頭原家の祖。
 天正10(1582)年の武田家の滅亡後、父・大隈守胤歳とともに徳川家康に召し出されて駿府城へ赴き、徳川家の家臣となった。同年8月30日、配下の同心衆が胤従へ返される旨の御朱印状が発給され、翌日の9月1日、成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門が上使として胤従のもとへ赴いて同心衆の支配が認められた。
 天正12(1584)年4月の小牧・長久手の戦いでは家康の旗本として活躍。戦後、秀吉と講和して大坂にあった家康から、長久手の戦いでの恩賞が下されている。 翌年12月、武田家国法軍令などの記録を提出するよう命じられ、元亀元年・元亀3年(三方ヶ原の戦い)の武田信玄の備立数ヶ条を差し出したところ、家康は非常に喜んだと伝えられている。
 天正18(1590)年8月、秀吉の命によって家康が関東へ国替えが命じられると、甲斐国は秀吉の股肱の家臣・浅野弾正少弼長吉(長政)の知行国となったため、胤従も知行地を浅野長吉へ引渡し、家康の命によって甲州衆九人は武蔵国八王子へ移されることとなった。この八王子は秀吉によって自刃させられた北条陸奥守氏照の本拠地であり、家康は彼らに、八王子はいまだ不穏の地ゆえ、用心のために八王子城(元八王子)の向かいの城あたりに在陣するよう指示した。これに八王子甲州衆は甲斐国の知行地の替地を家康へ願い出たところ、家康は本多佐渡守正信を使者として八王子へ送り、彼らに人数書きを提出し、それに沿って扶持を与える旨を伝えた。
 天正19(1591)年、胤従は家康に従って奥州御仕置のために出陣したが、そのとき八王子にあった胤従と同役の10名は、同心として50人を充てられ、八王子衆は都合で500人の兵力となった。
 天正20(1592)年2月、秀吉の朝鮮出兵に際しては、家康に従い文禄2(1593)年の春まで肥前国名護屋城に出陣。帰国後は4年にわたって元八王子周辺の民政を行って、治安回復のために尽力。八王子へ屋敷を拝領し、慶長3(1598)年に隠居を願い出て許され、翌年慶長4(1599)年3月15日に亡くなった。
 本来は甲斐国に知行を与えられた代官であった甲州衆は、秀吉によって甲斐国が徳川家から押収されたことによって、やむなく着の身着のままで武蔵国と甲斐国の境・八王子へ同心とともに移り住み、家康は彼らをそのまま国境警備隊・治安維持部隊として八王子を任せた。胤従ら甲州衆の面々もその期待によく応え、北条氏の残党が隠れ住む八王子の治安を回復させた。 

 慶長3(1598)年、父・胤従の跡をついで原家の家督を継承。慶長5(1600)年9月の関ヶ原の戦い
の際には、家康は胤虎ほか10名の八王子衆各々に浪人50人を新たに支配させ、八王子衆は都合千人の同心を率いる大部隊となった。八王子衆は徳川秀忠の中山道軍に加わって関ヶ原に向かったが、秀忠勢は途中で真田昌幸の軍勢に阻まれて関ヶ原に参戦することはできなかった。
 胤虎は慶長19(1614)年10月の大坂冬の陣、慶長20(1615)年4月の大坂夏の陣にも供奉し、夏の陣では真田信繁(真田幸村)の軍勢によって徳川家御先手が切り崩された時、胤虎は家康の槍を持って陣中に踏みとどまり、胤虎が防いでいる間に先手衆は陣を立て直すことができた。この功績は安藤対馬守重信によって家康に伝えられ、胤虎は陣中の家康に召され、褒賞金として二十両が下された。
 こののちも、家康の近習として伏見城,駿府城などに詰めているが、元和8(1622)年、病のため隠居を願い出、寛永4(1627)年9月24日、亡くなった。 

原 正胤

 元和8(1622)年、父・胤虎が隠居したため、家督を継承。寛永8(1631)年3月4日、武蔵・上総両国に342石の御扶持方の御朱印状が下された。寛永13(1636)年4月、家光は秀忠が造営した日光東照社をより荘厳なものとして完成させ、日光社参を行った際、正胤は家光に供奉して日光へ赴いた。
 慶安3(1650)年9月、家光の江戸城西丸御移徒の際、これに供奉。そのほか江戸城内の御普請御用を奉書にもとづき、同心らを召連れて勤めている。この御用のたびに金・時服などを拝領し、賜った奉書も代々原家に伝えられていった。
 慶安5(1652)年6月、4代将軍・徳川家綱の日光社参の際には火消役に任命され、老中列座の中、松平伊豆守信綱から、同役の窪田善九郎,志村又左衛門とともに前の火消役であった谷大学,片桐半之丞と交代する旨が伝えられた。そして16日、交代が行われ、12月2日、酒井讃岐守忠勝,松平伊豆守信綱,阿部豊後守忠秋ら重職連名の下知状が正胤ら火消役の面々に下された。
 明暦2(1657)年、隠居願を提出し、寛文2(1662)年正月11日に65歳で亡くなった。