| H466:原 頼常 | 平 高望 ― 平 忠常 ― 原 頼常 ― 原 胤高 | H467:原 胤高 |


| リンク | H468 |
| 原 胤高 | 原 胤氏 |
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頼常の子孫が胤惟で途絶えると、千葉氏胤の4男である胤高が胤惟の娘と結婚する。便宜上、胤高以前が前期原氏、以後が後期原氏のように分けられいている。 |
弥富原氏二代当主。原信濃守胤良の子。兄の原左衛門尉(朗珍),原右京亮胤致(朗嶺)が康正元(1455)年11月13日に千田庄内での戦いで戦死したため、家督を継いだ。この頃、千葉家内では、ともに千田庄を本貫地とする千葉家重臣の原氏と円城寺氏の対立が激化し、この年、原越後守胤房は千葉宗家一門の長老・千葉馬加陸奥入道常義(馬加康胤)を担いで、円城寺氏を重用する千葉介胤直入道に謀反を起こした。馬加陸奥入道は親古河公方派である一方で、千葉介胤直入道は古河公方・足利成氏と対立しており、千葉家は真っ二つに分裂した。 |
| 原 親幹 | 原 虎胤 |
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千葉親胤から一字を受けて「親幹」と名乗るが、後に父の若狭守や同族の原胤長とともにその暗殺に加担したと言われている。その後、森山城主だった海上富胤(千葉胤富)が千葉氏の家督を継承したために代わりに親幹に森山城が与えられたという。以後、胤富・邦胤の2代にわたって忠節を尽くしたために両者からの信頼を得て、原氏宗家の原胤貞、一門の原胤長と共に権勢を競った。また、天正10年(1582年)には国分胤憲の反乱を鎮圧するなど、下総東部において勢力を築いた。 |
武田の五名臣および武田二十四将の一人。明応6年(1497年)、原友胤の子として生まれる。『甲斐国志』によれば、元は下総国千葉氏支流である下総国衆・臼井原氏の一門であるという。永正10年(1513年)、小弓城合戦にて小弓公方・足利義明軍に敗北。居城である小弓城を奪われ、父・原友胤とともに甲斐に落ち延び、武田信虎の家臣となったとされている。ただし、実際に足利義明による小弓城攻めは永正14年(1517年)の出来事であるため、史実との齟齬が指摘される。 |
| 原 胤従 | 原 胤虎 |
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武田勝頼に仕えた目付役鎗支配。八王子千人頭原家の祖。 |
慶長3(1598)年、父・胤従の跡をついで原家の家督を継承。慶長5(1600)年9月の関ヶ原の戦い |
| 原 正胤 | |
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元和8(1622)年、父・胤虎が隠居したため、家督を継承。寛永8(1631)年3月4日、武蔵・上総両国に342石の御扶持方の御朱印状が下された。寛永13(1636)年4月、家光は秀忠が造営した日光東照社をより荘厳なものとして完成させ、日光社参を行った際、正胤は家光に供奉して日光へ赴いた。 |