<桓武平氏>高望王系

H431:平 忠常  平 高望 ― 平 忠常 ― 臼井常康 H466:臼井常康

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臼井常康 野見実好

 平忠常の曽孫・常兼従五位下上総介の3男・常安(常康)は千葉六郎と号し、1164(長寛2)年、総州臼井を領し臼井六郎と改めた。これを臼井姓の始めとする。
 菅原道真公の画像を伝えて常にこれを崇拝し、筑紫を慕うこと切である。源頼朝は覇府を鎌倉に開き、常安の忠勤に報いて筑前国嘉麻郡馬見庄・臼井庄を合わせ五百町を与えた。これより臼井兵衛尉と号し、後に次郎左衛門と改めた。これより前常安は総州臼井を領していたが、奇遇とはいえ、同名の地を筑前に得たことになる。 

 実好は領地を北条義時に没収されて漂泊することとなった。母はこれを嘆いて道真公御影に深く祈り、お告げによって叔父・常有と計って一族の下総国千葉胤綱を頼った。胤綱は元の領地上総国臼井に住まわせて、五百貫の地を与えたが、鎌倉をはばかって菅原家の縁により姓を野見と改めさせ、野見六郎と名乗らせた。これは野見宿禰から取ったものである。これより数代にわたって野見を名乗る。 
野見宣重 臼井安宣
 実好の孫である宣重野見六郎兵衛尉は文武の誉れ高く、北条宣時はこの才器を愛し、過去の仇を忘れて弘安元年再び嘉麻郡臼井庄を与えた。宣重の子・重量は大元襲来の時、松浦朝信,安部時重などに従って賊軍を大いに討つ。その子・安重は野見六郎といったが、1336(建武3)年、足利尊氏が多々良浜合戦に臨む折、宗像大宮司氏俊の催促によってこれに加わった。   後孫に日本最後の仇討ちで有名な臼井六郎(秋月藩家老・臼井亘理の長男:1858~1917年)がいる。