<桓武平氏>高望王系

H467:原 胤高  平 高望 ― 平 忠常 ― 原 頼常 ― 原 胤高 ― 原 胤房 H468:原 胤房

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原 胤房 原 胤隆

 円城寺尚任とともに千葉氏の執権であったが、両氏ともに千田庄・八幡庄内に所領を有していて領有をめぐり対立していた。享徳3年(1454年)に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことに始まる享徳の乱の際、当主の千葉胤宣と円城寺尚任は上杉氏に、胤房は成氏についたため対立が激化し、胤房は千葉城を襲い、康正元年8月12日(1455年9月23日)に胤宣と尚任を馬加康胤の加担を得て殺害、3日後の15日に胤宣の父・胤直を、9月7日に胤直の弟・胤賢も討ち千葉氏宗家を攻め滅ぼしたが、11月24日に胤賢の遺児の千葉実胤・自胤兄弟を擁立した千葉氏庶流で室町幕府奉公衆の東常縁に敗れ逃亡、馬加康胤も翌康正2年(1456年)に常縁に討ち取られたとされる。
 文明3年9月9日(1471年10月22日)に小弓城が上杉氏に攻められた際に戦死した「原越前入道」は、受領名との一致などから胤房のことであるとされている。また、これを別人として文明11年(1479年)に91歳の長寿で没したとする説もある。

 1471年(文明3年)9月9日、父が小弓で討死すると、家督をつぎ小弓城主となる。1501年(文亀元年)から1504年(永正元年)までの3年間、古河公方は千葉満胤の時に上総守護として上総国府中に移っていた木内小見氏の讒訴を受けて、千葉孝胤退治のため下総国へ出陣したが、結局本意なく古河に帰座するという事件が起こった。小弓城にいた原胤隆はこの事件は娘婿であった木内小見胤治の裏切りによるものとして1504年(永正元年)4月13日、上総国府中に攻め寄せて胤治を討ち取った。この事件については、両上杉氏の対立によって引き起こされた長享の乱への対応を巡って、孝胤から家督を譲られた千葉勝胤が古河公方と結んで父・孝胤を攻め、木内小見胤治も勝胤に従っていたとする説もある。これによって上総国の木内小見氏は5代で断絶する。
 その後、小弓公方(足利義明)と古河公方(足利高基)の抗争が始まると、胤隆は弥冨原氏や三上佐々木氏らとともに古河方につき、上総真里谷城の真里谷武田信清,真里谷武田信保らと所領をめぐって抗争を繰り返した。その後、三上佐々木氏は真里谷武田氏に寝返って、1516年(永正13年)8月23日には亥鼻城を攻撃。多数の死者が出た。同年11月、伊勢宗瑞の軍勢が上総に渡海すると、三上佐々木氏は原氏が他に寝返る。しかし1517年10月13日、三上佐々木氏の三上城が陥落。同月15日には小弓原氏の小弓城が落城した。その後、胤隆は相馬郡の布川に進出し、1536年(天文5年)にその地で死去した。 

原 胤清 原 胤貞

 下総原氏宗家の嫡男であるが、胤清が生まれた当時には父・胤隆は既に弟の朝胤を養子に迎えて家督を譲っていたとされ、このため当初は一族の養子に出されていたとも言われている。だが、永正15年(1518年)、足利義明が小弓城を落とした際に城主の原基胤(朝胤の嫡子)が戦死、朝胤系が断絶したためにその跡を継いだ。だが、義明の追及によって高城胤吉の根木内城(あるいは小金城)に逃れ、更に北条氏綱を頼ったと言われている。
 天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死すると、氏綱の後ろ盾を受けて小弓城を奪回した。その後、城名を「生実城」と改めて改築したとされている(異説あり)。その後、千葉氏の親北条氏路線の中心的な立場に立ち、千葉昌胤,利胤,親胤の3代にわたって千葉氏の実権を握った。特に幼少の親胤時代には胤清主導による千葉妙見宮の再建が行われ、その権力を内外に誇示している。 

 下総国の戦国大名・千葉氏に仕え、はじめ小西城の城主であった。天文8年(1539年)、父・胤清の隠居により家督を継いで、生実城主となる。その後、娘婿である臼井氏当主で臼井景胤が死去すると、姻戚関係を利用して外孫の臼井久胤の後見役として弘治3年(1557年)に臼井城に入城し、支配地で善政を行なうことによって臼井氏の家臣と領民の支持を集め、久胤を傀儡化し臼井城を事実上支配下に収めた(久胤はのちに逐電し結城氏を頼った)。
 永禄5年(1561年)には上総国の里見氏の力を背景に侵攻してきた正木信茂の侵攻を受けて臼井城と生実城を奪われたが、永禄8年(1564年)に里見氏が第二次国府台合戦において相模国の北条氏に大敗すると、千葉胤富らの助力により両城を奪還した。その後、上杉謙信が臼井城を攻撃したが、白井胤治などの助力によりこれを撃退したという。
 没年については永禄12年(1569年)5月といわれているが、その年の秋の越相同盟について上杉謙信から胤貞の処遇問題についての提案が出されており、疑問が残される。また、天正2年(1574年)に嫡男とされる胤栄が臼井城に入城し、さらに『千葉大系図』には天正3年(1575年)に胤貞が小西城に退いたとされている。いずれにしても元亀年間に入ると胤栄が当主として活動しており、1569年前後に当主の交代があったのは確実である。 

原 胤栄 原 胤義

 通説では原胤貞の嫡男とされているが、近年では庶子説・養子説(胤貞の弟)も出されている。元亀年間初めに胤貞の跡を継いで下総国生実城の城主となったが、天正2年(1574年)に原氏のもう一つの根拠であった臼井城へ移り、以後ここを拠点とした。原氏宗家当主として一族の統制を図ろうとするが、原親幹・胤長ら庶流の実力者達を抑えることは困難であった。加えて弟の原胤親とは不仲で、当主・千葉邦胤の許しを得て胤親の居城・手賀城に攻撃を加えたこともあったという。邦胤の死後は、北条氏政の子・直重を当主に迎え入れるが、これを主導したのも胤長であった。こうした背景からか原胤栄は中山法華経寺をはじめとする諸寺社を保護する命令を多く出している。
 豊臣秀吉の小田原征伐の最中に死去、嫡男の原胤義が後北条氏の人質となっていたため、急遽、原邦房が臼井城の城代に入ったという。

 千葉氏筆頭重臣の原氏としては最後の当主。千葉氏当主・千葉重胤が幼少を理由に後北条氏の人質として小田原城に送られた際に同行する。天正18年(1590年、異説ではその前年)に父が急死したために家督を継ぐ。だが、この時には豊臣秀吉の小田原征伐が始まっており、既に千葉重胤・原胤義主従のいた小田原城は敵に包囲されていた。更に千葉氏の本拠である本佐倉城や原氏の拠点である臼井城,生実城もそれから程なく当主不在のままで陥落した。
 やがて後北条氏が降伏すると、千葉氏・原氏ともに改易となって胤義は諸国を流浪したとされている。また、一説によれば千葉氏の後北条氏加担の責任を取る形で小田原落城直前の天正18年6月18日(1590年7月19日)に自害したとも言われている。いずれにしても、後北条氏の人質のまま没落した胤義に当主としての事績は皆無である。 

原 胤信 原 胤親

 千葉氏の筆頭重臣であった原胤栄の孫として臼井城で生まれる。生後間もなく、父・胤義は後北条氏の人質となった千葉重胤に随従して小田原城に入る。ところが、豊臣秀吉の小田原征伐の最中に祖父・胤栄が急死、父も敵軍に包囲された小田原城に籠城していたため、4歳の吉丸に代わり同族の原邦房が臼井城城代として同城に入った。だが、間もなく豊臣軍に囲まれた臼井城は落城し没落。父は千葉氏の後北条氏への加担責任を追及されて失踪する(自害したとも出奔したともいわれるが不明)。
 その後、名族出身であることから徳川家康により小姓として召しだされる。1600年(慶長5年)、大坂でモレホン神父から受洗し、キリシタンとなった。1603年(慶長8年)、走衆の頭となり、1607年(慶長12年)から駿府で家康のそばに仕え、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢されている。
 ところが、1612年(慶長17年)の岡本大八事件を機に江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を開始し、キリスト教を信じる旗本に対しても棄教が命じられた。胤信はこれを拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。しかし、1614年(慶長19年)に藩主・高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒んだため、また、駿府城における9回に及ぶ不審火の捜査線上に上がってきたのが、主水とその妻であった。先の岡本大八事件からキリシタンに対し疑念を強く抱いてこともあり、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で1615年(元和元年)に追放された。
 胤信はその後も布教活動を続け、江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、後に密告によって捕らえられ、1623年(元和9年)に宣教師ら47名とともに江戸市中引廻しの上、高輪の札の辻(高札場)にて火刑に処された(江戸の大殉教)。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べたと伝えられている。なお、彼の処刑は、徳川家光が将軍職を徳川秀忠から世襲しても、禁教の方針が不変であることを示すための示威行為でもあった。
 なお、明治初期のプロテスタント信徒の原胤昭は、胤信の大叔父・胤親(胤栄の弟)の子孫にあたり、後に原宗家の断絶がキリシタン弾圧のせいであることを知って、その功績を伝えることに尽力している。

 天文23年(1554年)に父である原胤貞が小弓原氏(原本家)を継ぎ、小弓城と臼井城の城主となった際に、胤親は16歳の若さにして下総国相馬郡手賀城主となり、その後、千葉昌胤から千葉親胤までの三代にわたって下総千葉氏につかえた。ただ、胤貞の祖父・胤隆以前に分かれた庶流の出身ではないかとの推測もある。
 永禄9年(1566年)には上杉輝虎の臼井城攻撃に際して千葉氏・原氏側の先鋒を務めたという記録が残っており、その時には300余りの軍を率いたという。天正6年(1578年)に39歳で没すると、嫡子の久胤がその遺跡を継いだ。ただし、天正9年(1581年)と翌年に千葉邦胤の名代として古河公方・足利義氏に年頭の挨拶を行った取次の「原筑前守」は胤親のことと考えられ、また、1588年(天正16年)9月26日と位牌銘の記録があったとする伝承もあることから、こちらを没年として採用すべきであるとする説もある。 

原 胤昭

 明治時代のクリスチャンの実業家,地本問屋,浮世絵商である。
 父は江戸南町奉行所吟味方与力・佐久間健三郎、母は南町奉行所年番与力・原胤輝の娘とき。兄に鬼佐久間と呼ばれた佐久間長敬がいる。元和の大殉教で処刑され、列福されたヨハネ(ジョアン)原胤信(主水)の大叔父の子孫にあたる。
 元治元年(1864年)、母の実家(原氏)の当主・原胤保が早世したためその養子となる。慶応2年(1866年)に江戸南町奉行所の無足見習となり、翌慶応3年(1867年)に本勤めとなった。明治維新の後、東京府の職員になるが、明治5年(1872年)に職員減員のため免職。
 明治7年(1874年)に東京第一長老教会でクリストファー・カロザース宣教師より洗礼を受ける。この時、感謝の催しとして、築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校においてクリスマス祭を開いている。ここに登場したのが、日本最初のサンタクロースであったとされる。ただし、このときのサンタクロースを演じたのは戸田忠厚で、彼は裃を着用、大小の刀を差し、鬘をかぶった純日本風のサンタクロースであったようである。後に銀座独立教会の創立会員になっている。
 同じく明治7年(1874年)にキリスト教書店の十字屋を創業し、キリスト教書(洋書)の出版活動に従事する。明治9年(1876年)に、ジュリア・カロザースの経営していた成樹学校を改組・改名し、原女学校を開設した。
 明治12年(1879年)か明治13年(1880年)頃に錦絵問屋を神田須田町25番地に開き、主に小林清親の作品を出版した。明治15年(1882年)に清親の錦絵「新版三十二相」を版行、翌明治16年(1883年)9月から福島事件の被告の肖像画「天福六家撰」を版行するが、これが自由党員を応援するような内容の錦絵であるとして3枚出版したのみで発禁処分を受け、原自身も新聞紙条例違反等の罪に問われ、軽禁錮3ケ月・罰金30円の刑に処され、石川島監獄に収監される。また同年、清親による「三十二相追加百面相」を出版している。送られた監獄は、かつて見回り方を務めていた石川島人足寄場が改まったものであった。この収監中に見た囚人の窮状から、監獄の改良や出獄者の保護が必要であると実感し、出獄後には教戒師になり釧路集治監で勤める。また、明治31年(1898年)に東京出獄人保護所を創立、囚人保護の社会事業に尽力、1万3千人を超える出獄人を保護した。また、日本で初めて本格的に児童虐待の問題に取り組み、明治42年(1909年)に児童虐待防止協会(1990年設立団体とは別物)を設立したとされる(史実としては確認できていない)。家庭内の虐待と児童労働による酷使の双方の解決に尽力した。