<桓武平氏>高望王系

H431:平 忠常  平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 H437:千葉常重

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千葉常重 千葉常胤

 天治元年(1124年)、叔父の相馬常晴より下総国相馬郡の郡司を譲られ、2年後の大治元年(1126年)に死去した父・常兼より同国千葉郡を継承して両郡を支配する。同年6月1日に千葉に本拠を移したとされる。鳥羽法皇に対して、千葉郡の中心地域を荘園として寄進する(千葉荘)。後に千葉荘は八条院領に編入されて常重はその荘官となった。千葉荘支配のために亥鼻城を築いて拠点とし、後の千葉氏の基礎を固めた。また、相馬郡にあった相馬御厨も大治5年(1130年)6月11日に伊勢神宮に対して寄進を行っている。保延元年(1135年)に18歳の嫡男・常胤に家督を譲った。だが、翌年7月15日、下総守・藤原親通が公田官物未進を理由に常重を捕らえて目代・紀季経に命じて相馬御厨の親通への譲渡証文を作成させて獄中の常重に対して署名を強要したのである。ところがこれに常晴の常重への相馬御厨譲渡の無効を主張する源義朝が干渉して親通と義朝、それに相馬御厨を強引に奪われた常重・常胤親子の三つ巴の争いに発展するのである。

 

 大治5年(1130年)6月11日、千葉氏の祖である父・平常重は所領の相馬郡布施郷を伊勢神宮に下総相馬御厨として寄進しその下司職となっていたが、保延2年(1136年)7月15日、下総守・藤原親通に相馬郷,立花郷の両郷を押領されて、さらに康治2年(1143年)に源義朝が介入し、常重から相馬郡の証文を責め取った。
 こうした事態に対して常重の跡を継いだ常胤は、久安2年(1146年)4月にまず下総国衙から官物未進とされた分を納め相馬郡司職を回復し相馬郷についても返却を実現する。常胤は8月10日に改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進した
 以後、常胤は保元元年(1156年)の保元の乱に出陣し源義朝指揮下で戦う。平治の乱で源義朝が敗死すると、永暦2年(1161年)には常陸国の佐竹義宗が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、藤原親盛(親通の子で平重盛側室の養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。この争いは佐竹義宗の勝訴し、 以後、常胤は義宗と激しく争うことになる。
 この頃、平治の乱で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の源頼隆である。
 治承4年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送った。 『吾妻鏡』によれば、常胤は盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとされる。
 9月13日、常胤は胤頼の勧めに従って、胤頼と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府に襲撃してこれを討っている。『吾妻鏡』では9月17日に常胤は一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣したとしている。ただし、頼朝が途中、常胤の本拠である千葉荘を通過して千葉妙見宮などを参詣したと伝えられていることから、現在では最初の会見は上総国府もしくは結城ノ浦と考えられている。なお、この時に源氏の子として育ててきた頼隆を伴って参陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けた。10月2日には頼朝が太日河・墨田川を越えて武蔵国に入り、豊島清元,葛西清重父子に迎えられているが、この際に船を用意したのは千葉常胤と上総広常とされている。また、鎌倉の都市計画に関しては、常胤当時の千葉の推定図と頼朝時代の鎌倉の推定図がともに北端に信仰の中核になる寺社(千葉の尊光院と鎌倉の鶴岡八幡宮)を設けてそこから伸びる南北の大路を軸として町が形成されていることから、常胤の献策があった可能性を指摘する研究者もいる。
 建久4年(1193年)には香取社造営雑掌を務め、後に千葉氏が香取社地頭として、社内への検断権を行使する権利を獲得するきっかけとなる。建仁元年(1201年)に死去、享年84。

武石胤盛 日胤

 久安2年(1146年)、千葉常胤の3男として誕生。下総国千葉郡武石郷を領したことから、武石三郎を称する。素加天王社の伝承によれば、胤盛は気が短く、父親の常胤と折り合いが悪く、しばらく山ごもりをしていたが、弟の大須賀胤信が気の毒に思って所領を分けてやり、武石に住まわせたという。
 源頼朝が挙兵をすると、父と共に従い源義仲,伊勢平氏,奥州藤原氏と戦った。奥州合戦の後、父の常胤が頼朝から恩賞として受けた陸奥国の所領のうち、宇多郡,伊具郡,亘理郡の一部を譲られた。
 子孫は拠点を亘理郡に移し、延元4年/暦応2年(1339年)頃に「亘理」を称し、武石に残った系統は千葉氏・里見氏に仕えたとされている。長野県上田市武石にも武石氏に関する伝承があり、武石小沢根の子檀嶺神社には胤盛の名を刻んだ石碑が立っている。

 平安時代後期に活躍した天台宗の僧。園城寺に属し、号は律静房(律上房)。『吾妻鏡』によれば、源頼朝の祈祷僧と伝えられている。頼朝の依頼により石清水八幡宮にて千日参籠して大般若経を無言転読する行を行っていたが、以仁王が園城寺に入ったことを知るとこれに従って平家と戦い、奈良の光明山鳥居での戦いで戦死した。頼朝の依頼は弟子の日恵が残りの分を果たして、翌年5月に頼朝に報告している。
 『平家物語』では日胤の死を知った頼朝が伊賀国山田郷を園城寺へ寄進したとされ、また『千葉大系図』には父・常胤が日胤の供養のために下総国印旛郡に円城寺を創建したとされている。千葉氏の一族が日胤の名跡を継いで円城寺氏と称したとされ、同氏の名前が千葉氏の家臣としてみられる。