<桓武平氏>高望王系

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亘理宗隆 亘理元宗

 明応2年(1493年)、亘理氏15代当主・亘理宗元の子として生まれる。亘理氏は、父・宗元の代に伊達稙宗の傘下に入っており、宗隆は娘を稙宗の側室に出している。稙宗と娘の間には二人の男子(綱宗,元宗)が生まれ、男子のいなかった宗隆は、この外孫達を自らの養嗣子として迎えた。天文5年(1536年)、稙宗が大崎義直の要請を受けて大崎氏家中の内乱鎮圧のため出兵した際には、他の奥州諸侯らと共に参陣している。
 天文11年(1542年)に発生した天文の乱では、稙宗方に立って参戦する。天文12年(1543年)3月に綱宗が討死したため、代わって元宗を跡取りとした。乱の終結後に元宗に家督を譲ると、隠居領として亘理郡内5ヶ村(小平,花釜,大畑,吉田,長瀞)を領し、相馬方との前線に近い小平城に入った。弘治2年(1556年)7月21日死去。享年64。隠居領には娘婿の泉田重隆が入り、小平氏を称した。

 享禄3年(1530年)、伊達稙宗の12男として生まれる。天文12年(1543年)3月、外祖父・亘理宗隆の養嗣子となっていた同母兄の綱宗が討死したため、亘理氏の跡取りとなり、天文の乱終結後に家督を相続した。この頃の所領は亘理郡の20ヶ村,伊具郡の6ヶ村,名取郡の長谷村であった。それまでの亘理氏の居城であった小堤城の北東に、新たに亘理城を築いて移った。
 天文21年(1552年)には、長兄・伊達晴宗の命を受けて上洛した。この折に武田信虎の知遇を得て、佩刀「綱広」を贈られた。永禄13年(1570年)4月、甥の輝宗が中野宗時を討伐した際には、逃げ延びる宗時らを刈田郡宮河原で迎撃した。名取郡の小川村と笠島村,伊具郡の小田村,長井(置賜郡)の河原津村の4ヶ村を加増された。天正2年(1574年)、輝宗が天正最上の乱に最上義守方として参戦すると、最上領に通じる篠谷口へと出陣。9月には和平交渉のため最上氏重臣・氏家守棟と会談し、同月10日に和睦が成立した。天正6年(1578年)、輝宗が越後国への介入を開始すると、相馬盛胤との戦の指揮を一任された。
 輝宗の子・政宗の代にも人取橋の戦い,葛西大崎一揆鎮圧等に従軍するなど、伊達一門の重鎮として軍事・外交面で引き続き活躍した。天正19年(1591年)、伊達家の岩出山移封に伴い、遠田郡涌谷城に移され885貫5文(8850石)を領した。
 文禄3年(1594年)6月19日、遠田郡大貫にて病死した。享年65。子孫は仙台藩の一門である涌谷伊達家となる。

亘理重宗 亘理宗根

 天文21年(1552年)、亘理氏17代当主・亘理元宗の嫡男として生まれる。永禄9年(1566年)、伯父・伊達晴宗を烏帽子親として元服し、遅くとも元亀年間までには相馬盛胤の娘を正室に迎えている。家督を相続した正確な時期は不明だが、元宗は亘理城を重宗に譲って山西の金津郷に移っていたことが書上に記されており、遅くとも涌谷に移る以前であったということは判明している。
 天正6年(1578年)、伊達輝宗が御館の乱に介入して越後に出兵すると、父・元宗が対相馬戦の指揮を一任された。以後、伊具郡をめぐって相馬義胤と交戦し、天正11年(1583年)5月の丸森城攻めでは、明護山に砦を築いて相馬勢を分断した。また、天正13年11月(1586年1月)の人取橋の戦いにも父と共に従軍した。天正17年(1589年)5月、相馬領の駒ヶ嶺城を攻略する。この時獲得した宇多郡北部は幕末に至るまで仙台藩の所領となった。同年9月には反攻を仕掛けてきた相馬勢を亘理郡吉田浜で破り、天正18年(1590年)5月18日の童生淵の戦いでは、相馬隆胤を討ち取った。
 天正19年(1591年)、葛西大崎一揆鎮圧に従軍した際には、佐沼城攻めで父と共に先陣の指揮を取り、左股を負傷している。一揆鎮圧後、伊達政宗は豊臣秀吉より岩出山城への転封を命じられる。この時、亘理郡は引き続き伊達氏の所領として残されたが、政宗は亘理氏に遠田郡への領地替えを命じた(知行高8850石)。当初、重宗は百々城に入ったが、同年冬には涌谷城へと居城を移している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には江戸に在って人質となっていたため、嫡男・定宗が代わりに出陣し、上杉景勝領の白石城を攻略して徳川家康から功を賞された。
 慶長9年(1604年)10月、隠居して定宗に家督を譲り、政宗から隠居領として栗原郡高清水城1000石を与えられる。慶長11年(1606年)に政宗の庶子・宗根に末娘を嫁がせて婿養子とし、隠居領と併せて亘理氏の名跡を継がせることになった(のちの佐沼亘理氏)。このため、既に亘理氏の家督を相続して涌谷城主となっていた定宗には、代わりに伊達姓を名乗ることが許された(涌谷伊達氏)。元和6年(1620年)1月25日死去。享年69。

 慶長5年(1600年)、伏見にて伊達政宗と愛妾・香の前の間に生まれる。香の前は初め豊臣秀吉の愛妾であったが政宗に下賜され(重臣・茂庭綱元が秀吉から香の前を賜り、それを政宗が奪い取ったともいう)、政宗と香の前の間には一女一男が生まれたが、そのうちの男子が宗根である。宗根誕生後の慶長7年(1602年)、香の前は茂庭綱元に下げ渡され、その側室となった。この時、宗根は同母姉の津多と共に綱元の実子扱いで養育されることになったので、当初は茂庭又四郎と名乗った。
 慶長11年(1606年)、栗原郡高清水城にて隠居していた亘理氏前当主・亘理重宗の末娘を娶って婿養子となり、亘理氏の名跡を相続して亘理宗根と名乗った(高清水亘理氏、のちの佐沼亘理氏)。高清水城は宝暦7年(1757年)に第5代・倫篤が佐沼城に移されるまでの150年間、亘理氏の居城となった。これにあわせて、既に亘理氏宗家当主の地位を相続していた涌谷城主・亘理定宗には、代わりに伊達姓を名乗ることが許されている(涌谷伊達氏)。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に従軍した際には、家来の牧野半助と共に奮戦して大野治長配下の部将・中川隼人を討ち取る武功を挙げ、翌元和2年(1616年)には正式に重宗の隠居領1,000石の相続を許され、あわせて栗原郡沼崎・鶯沢に加増地を拝領した。元和4年(1618年)には母・香の前を高清水に迎え入れて最期まで孝養を尽くし、香の前の17回忌となる明暦2年(1656年)には、その墓所に亘理氏の菩提寺となる安楽寺を開基した(現:福現寺。安楽寺は後に佐沼へ移る)。
 寛文9年(1669年)10月26日死去。享年70。嫡孫・宗喬が家督を相続した。