武蔵国の村岡あるいは相模国の村岡を本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である。仁和2年(886年)3月18日に京で生まれたと伝わる。昌泰元年(898年)に父・平高望が東国に下向した際には、正室の子である国香,良兼,良持は従ったが、側室の子である良文は従わず、後に武蔵国大里郡村岡あるいは相模国村岡(現・神奈川県藤沢市)に下ったと伝われている。加えて下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町,同小見川町にも居館があったとされる。 優しい風貌の勇将であったと伝わる。延長元年(923年)、良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて、領内を荒らした盗賊を滅ぼしたという。 天慶2年(939年)4月17日、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し、鎮守府である胆沢城にとどまった。実際に同日、出羽国で俘囚と秋田城司の軍勢が衝突しており朝廷は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年(940年)5月、良文は関東に帰国した。 晩年は下総国海上郡、さらに阿玉郡へ移り、天暦6年(952年)12月18日に67歳で没したと云われる。千葉県小見川町の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀,土塁,物見台などが確認された。 『今昔物語集』には源宛(箕田宛)との一騎討ちの説話が収められている。二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎打ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人のすばらしい業に敵味方関係なく喝采が送られた。二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえあい、今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。 『将門記』には良文に関する記述は無く承平天慶の乱の際の詳しい動向は不明であるが、武蔵国あるいは相模国の村岡に居て将門側にあったのではないかと推察されている。千葉神社の渋谷川の碑文によると、叔父の平国香(平貞盛の父)らが渋谷川で将門を襲撃した際、叔父の良文が将門を援護し両者は逆襲したとされる。しかし、平将門の敗死の第一報を都に伝えたのは良文であり、良文が藤原秀郷や平貞盛側に加わっていたことがわかる。記録では将門討伐には加わっておらず手柄を立てたわけでもないのに将門の旧領である下総国相馬郡を与えられている。また、後代千葉氏の一族によって編纂された『源平闘諍録』には、良文が甥である将門の養子となっていたので、将門の窮地を救った妙見菩薩が良文から忠頼を経て千葉氏に伝わり、結城浜の戦いでは千葉成胤を助け源頼朝を守ったとする記述がある。
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妻は平将門の娘・春姫。平将門とは従兄弟にあたる。父と同じく村岡を号とし村岡次郎と称した。名は経明,恒明とも。 忠頼は、平繁盛が延暦寺に金泥大般若経600巻を書写して奉納しようとした際に、かの仇敵を駆逐するためという理由から忠光とともにこれを妨害した。平将門の乱を鎮圧した平繁盛を仇敵と呼んでいたことから、忠頼の父である良文は平将門と親しかったものと思われる。 寛仁2年12月17日に90歳で死去したとされるが、伝説と思われる。
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