花山源氏

K325:冷泉天皇  冷泉天皇 ―(花山天皇)― 源 延信 G901:源 延信

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源 延信 顕広王

 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。
 延信王は白川伯王家の祖となる。神祇伯。後一条朝の万寿2年(1025年)正月に二世王の蔭位により従四位下に直叙され、同年12月に父・清仁親王の奏請により源朝臣姓を与えられて臣籍降下している。正月の叙位に関して、「安和御後」つまり冷泉天皇の皇孫として叙位を受けていることから、源朝臣賜姓も「安和御後」としてのものと想定されるとして、延信を花山源氏ではなく冷泉源氏とする見方がある。翌万寿3年(1026年)侍従に任官する。
 その後、従四位上・弾正大弼に叙任され、後冷泉朝初頭の寛徳3年(1045年)神祇伯に任ぜられた。
 子息の康資王も神祇伯の官職を継承する。古来より、神祇伯は中臣氏の氏人が務める例が多かったが、永万元年(1165年)延信の曾孫・顕広王が任ぜられて以降、この家系が世襲するようになった。そこで、この家系を伯家(白川伯王家)と呼ぶようになり、延信王はその祖と仰がれた。 

 父・顕康王は村上源氏の右大臣・源顕房の猶子となり源氏を称した。顕広王も当初は源氏を称したが、のち擬制的に祖父・康資王の子となり、花山天皇裔の三世王となった(実系では花山天皇の五世孫)。当時、諸王は三条天皇の子孫を最後に天皇家からの分出は絶えて四世王以下となっており、三世王格の顕広王は世数の面で他の諸王に優っていた上に、長寿を保ったことから、諸王の筆頭として事実上の王氏長者(王氏是定)の地位を確立した。
 従五位下に叙爵後、永治元年(1142年)正月に正親正に任ぜられる。同年11月に近衛天皇の大嘗会に伴う叙位にて子息の実広王が王氏爵で叙爵していることから、このころ顕広王は事実上の王氏長者になったと想定される。長寛3年(1165年)に神祇伯となるが、五位での任官は史上初めてであり、以後、白川伯王家が神祇伯を世襲することとなった。その後も、高齢にかかわらず伊勢奉幣使の使王を務めて伊勢神宮に赴くなど一線で活躍し、仁安元年(1166年)正五位下、仁安2年(1167年)従四位下と昇進を続け、仁安4年(1169年)正四位下に至った。
 安元2年(1176年)、神祇伯の官職を子息の仲資王に譲り、安元3年(1177年)に出家。治承4年(1180年) 7月19日卒去。享年86。
 顕広王の破格の栄進については、顕広王の自身の実力もさることながら、当時の権力者である後白河法皇や源頼朝からの信望が厚かった弟の天台座主・公顕の寄与もあったと想定される。日記『顕広王記』がある。

仲資王 資宗王

 永暦2年(1161年)、従五位下に叙爵し、顕順から仲資に改名する。高倉朝の承安3年(1173年)六条天皇即位時に左褰帳の典侍を務めた信子女王の譲りにより17歳で従五位上に進むが、50歳ごろまで従五位下に留まっていた父・顕広王に比べて大幅に早い昇進であった。さらに、安元2年(1176年)には兄・顕綱王を差し置いて、顕広王から神祇伯の官職を譲られる。この急速な昇進の背景には、仲資王が父・顕広王から寵愛を受けていたことが想定される。
 安元3年(1177年)に顕広王が出家すると、翌治承2年(1178年)正月の叙位にて神祇伯・仲資王と正親正・顕綱王がそれぞれ王氏爵を推挙する事態が発生する。仲資王は神祇伯であることが王氏長者に値すること、顕綱王は位階が上席であることを、それぞれ主張した。しかし、諸王による王氏爵の推挙自体が顕広王によって始められた新例であったことから、典拠とすべき先例がなかったため対応が決定せず、王氏爵は行われなかった。しかし、翌治承3年(1179年)9月の伊勢例幣において顕綱王が王氏長者と認められ、治承4年(1180年)正月の叙位では顕綱王が推挙した康信王(顕綱王の子)が王氏爵を受けている。
 その後、寿永2年(1183年)末までに顕綱王が従四位下を極位として卒去または出家したと見られる一方で、仲資王は養和元年(1181年)正五位下、寿永元年(1182年)従四位下次いで従四位上、元暦元年(1184年)正四位下と順調に昇進し、早くも顕綱王を越え父・顕広王と同じ位階に達した。これにより、仲資王は王氏長者の座に就いたと想定され、実際に元暦元年(1184年)、後鳥羽天皇の即位に伴う叙位において、仲資王の推挙によると見られる資宗王(仲資王の次男)が王氏爵を受けている。
 また、仲資王は王氏田と称される代々正親正が知行していた保田30町を強引に知行する。これに対して、正親正・資遠王はじめ諸王らによって王氏田が押領された旨の訴えが頭弁・藤原光雅に出されるが、裁決は下らなかった。これに伴って王氏の任務であった伊勢奉幣使に関する行事に奉幣使の出発の遅延など影響が発生している。
 建久元年(1190年)、神祇官殿舎を修造した賞により従三位に叙せられて公卿に列す。建久9年(1198年)に神祇伯を子息の業資王に譲り、顕広王-仲資王-業資王と三代続けて神祇伯を出してその世襲を確定的にした。元久2年(1205年)正三位に至り、承元元年(1207年)正月に兵部卿に任ぜられ八省卿となった。同年7月28日出家。また、同年には当時権勢を誇っていた藤原兼子に坊門堀川北戸主の地を贈っているが、本人または子息の叙位任官に関係する可能性もある。承久4年(1222年)薨去。享年66。

 建仁元年(1201年)、王氏爵により従五位下に叙爵する。神祇伯を世職としていた花山王氏は兄・業資王が継いでいたため、元久2年(1205年)、資宗王は源朝臣姓を与えられ、侍従に任官する。建永2年(1207年)従五位上に昇叙されるが、翌承元2年(1208年)5月に殿上にて蔵人頭・葉室光親に対して放言を浴びせ、一時解官となった。
 同年12月に赦されて官界に復帰すると、建保3年(1215年)正五位下、建保6年(1218年)従四位下、承久元年(1219年)右近衛少将と羽林家の官歴を辿り、承久4年(1222年)には従四位上に昇叙される。しかし、元仁元年(1224年)に兄・業資王が没したため、資宗王は神祇伯に補せられ王氏に戻って花山王氏を継いだ。元仁2年(1225年)正四位下、嘉禄2年(1226年)従三位と昇進して、業資王の極位に並んだ。
 その後、天福2年(1234年)正三位に昇叙されて、父・仲資王の極位に並び、暦仁元年(1238年)には花山王氏として初となる従二位にまで昇った。仁治2年(1241年)には兄・業資王の子である源資光を差し置いて、自身の子息である資基王に神祇伯を譲る。このため、花山王氏は二流に分裂し、数世代に亘って神祇伯の官職を巡る相論が続くことになった。寛元2年(1244年)出家。