<継体朝>

K324:村上天皇  継体天皇 ― (略) ― 光孝天皇 ― 宇多天皇 ― 醍醐天皇 ―朱雀天皇 ― 村上天皇 ― 冷泉天皇 K325:冷泉天皇

リンク K327・G901・G903
冷泉天皇 尊子内親王

 第二皇子であったが、異母兄の広平親王を押しのけて、生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。同母弟の為平親王(村上天皇第四皇子)と、もうひとりの同母弟の守平親王(村上天皇第七皇子:後の円融天皇)の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が起こった。安和2年(969年)、円融天皇に譲位。譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている。
 以後、後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合されることとなった。
 冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立った。大江匡房が記した『江記』などにより、以下のエピソードが挙げられる。
・足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。
・幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。
・病気で床に伏していた時や退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。
これらの奇行と当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力な跡継ぎとされていた為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した(安和の変の伏線)こと等が僅か2年で退位する原因となった。退位後は在位時のプレッシャがなくなったのか、62歳まで生き、花山天皇をはじめとする皇子女や弟円融天皇、甥の一条天皇等多くの親族に先立たれた。 

 康保4年(967年)、父・冷泉天皇即位により内親王宣下。康保5年(968年)7月、斎院に卜定、12月に初斎院に入る。天禄元年(970年)、紫野斎院に入る。天延3年(975年)、母・懐子が没したため退下。貞元3年(978年)、四品に叙される。天元3年(980年)10月、叔父・円融天皇の勧めで入内。天元4年(981年)、二品に昇叙。天元5年(982年)、叔父・藤原光昭の死去により内裏を退出して落飾。永観3年(985年)4月に受戒ののち、同年5月没。享年20。
 尊子内親王は『栄花物語』によれば「いみじう美しげに光るやう」な姫宮であったといい、摂関家嫡流を外戚に何不自由ない将来を約束されていたが、外祖父・藤原伊尹や母・懐子、そして叔父たちまでも次々と早世したために有力な後見を失ってしまう。また円融天皇の妃となった際も、入内直後に大火があったため世間から「火の宮」(内親王の皇妃「妃の宮」に掛けた渾名)と呼ばれるなど、高貴な生まれにも関わらず不運の連続だった。それでも円融天皇は尊子内親王を可愛らしく思い寵愛したというが、唯一の頼りであった叔父・光昭の死を期に、内親王は自ら髪を切り落として世を捨ててしまう。その後、漢学者・源為憲が内親王のために『三宝絵』を著して進呈し、また没する際には慶滋保胤が四十九日供養の願文を自らしたためて、若くして出家・他界した尊子内親王の慎ましい人柄を偲んだ。

花山天皇 昭登親王

 安和2年(969年)、叔父・円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父・伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。
 関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅・義懐と乳母子・藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行ったが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。
 寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御・藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の3男・道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。
 元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝える。この事件は寛和の変とも称されている。 この事件は親王時代に学問を教え、当時、式部丞になっていた紫式部の父・藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命の運命にも影を落とした。
 花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画,建築,和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。
 出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山で隠棲生活を送っていたとされる。
 また、出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)、花山法皇29歳のときに中関白家の内大臣・藤原伊周,隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた故太政大臣・藤原為光の娘・三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御・藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、相談を受けた弟の隆家が従者を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたという事件である。伊周,隆家はそれぞれ大宰府,出雲国に流罪となった(長徳の変)。
 寛弘5年(1008年)2月に花山院の東対にて崩御、死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。

 その出生は複雑である。誕生時には父は既に出家しており、母・平子は出自が低かった。更に父・花山法皇は平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務と通じて第一皇子・清仁親王を儲けるなど余りにも複雑な事情があったために、清仁親王ともども祖父・冷泉上皇の子として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んで話題にしたという。
 寛弘元年5月4日(1004年)には清仁親王とともに親王宣下を受ける。当時政権の座にあった左大臣・藤原道長は、複雑な背景を有する昭登らへの宣下に消極的であったものの花山法皇の意向を受けてやむなく従ったという。寛弘8年8月23日(1011年)、藤原実資の加冠によって元服して、同年9月10日に三条天皇の即位に合わせて四品親王となる。実資の『小右記』には、万寿2年2月28日(1027年)に親王邸が火事で焼失したことが記録されている。この時、兵部卿の地位にあった。その後、中務卿に遷りその在任中に薨去した。 

覚源 為尊親王

 醍醐寺の明観に師事して出家し、その後、深覚・仁海から灌頂を受けた。1030年(長元3年)伝法阿闍梨に任じられ、醍醐寺座主に就任、ついで権大僧都となった。1048年(永承3年)東寺長者・法務となる。永承5年(1050年)10月、後冷泉天皇の護持僧の労により権少僧都になる。更に弟・深観の後を受けて東寺長者に補任される。
 天喜2年(1054年)権大僧都に任ぜられる。翌年、東大寺別当を兼ねる。同5年、法印に叙される。康平5年(1062年)権僧正に任ぜられる。治暦元年8月、66歳で入寂した。

 異母兄・花山天皇の薦めにより藤原伊尹の娘・九の御方と結婚するが、のち和泉式部や新中納言と恋愛関係にあった。長保3年(1001年)冬頃から病にあり、翌長保4年(1002年)26歳という若さで薨去。伝染病が大流行していた平安京を毎日のように夜歩きしたために病を得たと噂されたという。
 同母弟の敦道親王とともに、少し軽薄な性格であったと評された。また、子どもの頃は非常に美しい容貌をしていたが、元服後は容姿が見劣りしてしまったという。 

敦道親王

 外祖父の兼家に、兄である三条天皇に次いで寵愛された。正暦4年(993年)に元服し、のちに帥宮と称された。最初の妃は関白・藤原道隆の3女であったが、道隆の死後に離婚した。
 兄・為尊親王の死から1年後の長保5年(1003年)、彼の生前の交際相手である和泉式部と恋愛関係となり、同年12月18日より和泉式部を召人として邸に住まわせたことから、正妃である藤原済時の娘の怒りを買い、のちに離婚する。寛弘3年(1006年)頃、和泉式部との間に男子(岩蔵の宮:後に出家して永覚と名乗る)を儲ける。
 勅撰歌人として、『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に4首が採録されている。