K324:村上天皇 | 継体天皇 ― (略) ― 光孝天皇 ― 宇多天皇 ― 醍醐天皇 ―朱雀天皇 ― 村上天皇 ― 冷泉天皇 | K325:冷泉天皇 |
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冷泉天皇 | 尊子内親王 |
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第二皇子であったが、異母兄の広平親王を押しのけて、生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。同母弟の為平親王(村上天皇第四皇子)と、もうひとりの同母弟の守平親王(村上天皇第七皇子:後の円融天皇)の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が起こった。安和2年(969年)、円融天皇に譲位。譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている。 |
康保4年(967年)、父・冷泉天皇即位により内親王宣下。康保5年(968年)7月、斎院に卜定、12月に初斎院に入る。天禄元年(970年)、紫野斎院に入る。天延3年(975年)、母・懐子が没したため退下。貞元3年(978年)、四品に叙される。天元3年(980年)10月、叔父・円融天皇の勧めで入内。天元4年(981年)、二品に昇叙。天元5年(982年)、叔父・藤原光昭の死去により内裏を退出して落飾。永観3年(985年)4月に受戒ののち、同年5月没。享年20。 |
花山天皇 | 昭登親王 |
安和2年(969年)、叔父・円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父・伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。 |
その出生は複雑である。誕生時には父は既に出家しており、母・平子は出自が低かった。更に父・花山法皇は平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務と通じて第一皇子・清仁親王を儲けるなど余りにも複雑な事情があったために、清仁親王ともども祖父・冷泉上皇の子として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んで話題にしたという。 |
覚源 | 為尊親王 |
醍醐寺の明観に師事して出家し、その後、深覚・仁海から灌頂を受けた。1030年(長元3年)伝法阿闍梨に任じられ、醍醐寺座主に就任、ついで権大僧都となった。1048年(永承3年)東寺長者・法務となる。永承5年(1050年)10月、後冷泉天皇の護持僧の労により権少僧都になる。更に弟・深観の後を受けて東寺長者に補任される。 |
異母兄・花山天皇の薦めにより藤原伊尹の娘・九の御方と結婚するが、のち和泉式部や新中納言と恋愛関係にあった。長保3年(1001年)冬頃から病にあり、翌長保4年(1002年)26歳という若さで薨去。伝染病が大流行していた平安京を毎日のように夜歩きしたために病を得たと噂されたという。 |
敦道親王 | |
外祖父の兼家に、兄である三条天皇に次いで寵愛された。正暦4年(993年)に元服し、のちに帥宮と称された。最初の妃は関白・藤原道隆の3女であったが、道隆の死後に離婚した。 |