村上源氏

G847:赤松家範  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 季房 ― 赤松家範 ― 赤松範資 G848:赤松範資

リンク G849・{G851}{G853}
赤松範資 赤松光範

 赤松則村(円心)の嫡男。元弘3年/正慶2年(1333年)、父・円心が鎌倉幕府討幕のために挙兵したとき、これに従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより、室町幕府成立後、尊氏から摂津国守護に任じられた。正平5年/観応元年(1350年)、父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では、尊氏・師直側に与して直義軍と戦っている。
 正平6年/観応2年(1351年)、京都堀川七条の自邸にて急死。後を弟の赤松則祐が継いだ。法号は世範。ちなみに範資の系統は、七条氏として存続している。この家系は戦国時代の明応5年(1496年)に赤松義村が惣領家に復帰し、以後、関ヶ原の戦いの赤松則英,斎村政広まで4代続くことになる。また、傍流の赤松氏満の家系が江戸時代に大身旗本として幕末まで存続した。
 円心の弟という説もある。また、義村の代まで則祐の家系と交互に家督を相続したという説もある。

 京都七条の屋敷に住んでいたことから七条光範とも称される。
 正平5年/観応元年(1350年)と翌正平6年/観応2年(1351年)に祖父と父が相次いで亡くなり、摂津守護職は光範に受け継がれたが、家督と播磨は叔父の則祐に移った。正平7年/観応3年(1352年)に南朝が京都を襲撃する事態が発生すると、近江に逃れた将軍・足利義詮の召集命令に応じて叔父と共に北朝に味方し京都を奪回、男山包囲戦にも加わった(八幡の戦い)。
 正平14年/延文4年(1359年)の南朝征討にも従軍したが、翌年に摂津守護職を佐々木道誉に交替させられた。正平18年/貞治2年(1363年)に摂津守護に再任されたが、文中3年/応安7年(1374年)に細川頼元に替えられた。弘和元年/永徳元年(1381年)10月3日、享年62で死去。
 子孫は七条氏として存続、戦国時代に義村が惣領家の家督を継承した。また義村の弟義允の末裔は戦国期に石野氏を名乗って別所氏・豊臣氏に仕え、江戸時代には5000石の大身旗本として赤松家を再興した。

石野氏満 石野氏置

 赤松氏の庶流の一族で、父・石野氏貞が石野城に拠ったことから石野氏を名乗った。
 天正6年(1578年)、羽柴秀吉が三木城を攻めた際(三木合戦)には別所長治の部将として三木城に籠城。羽柴方の古田重則を射殺するなど功績を挙げた。三木城落城後は秀吉に仕え、ついで前田利家に属した。前田家に従って小田原征伐に従軍し、八王子城攻めでは先登して首級2を挙げている。その他数度の戦功があり、3千石余を得た。慶長11年(1606年)、加賀国で死去、享年54。

 

 名門守護大名・赤松氏の庶流七条氏の後裔。上総国下湯江陣屋を領した。対外的には石野氏を称した。
 幼少の頃は外祖父・有馬則頼に養育され、元服後しばらくは、かつての赤松氏嫡流に倣って義利と名乗った。
 文禄元年(1592年)7月、則頼の紹介により名護屋城在陣中の徳川家康と対面し、家康に召されて近習として仕え始めた。文禄4年(1595年)、上総国天羽郡・周淮郡内に2150石余を得た。関ヶ原の戦いでは斥候の役を務め、この功績によって伊豆国修善寺に1000石を賜った。慶長6年(1601年)、御使番となる。
 慶長17年(1612年)、駿府において死去。享年39。跡を嫡男・氏照が相続した。2男・氏信は徳川頼房(水戸藩)に仕えた。