若い頃の動向については不明だが、京都に向かう途中に禅僧の雪村友梅と出会ったという話が伝わり、長男・範資と次男・貞範が摂津国長洲荘の悪党の取り締まりに派遣されたことと、赤松氏の本拠地である播磨佐用庄の一部の領主が鎌倉幕府の京都における拠点である六波羅探題の家臣であったことから六波羅に勤務していたと推定されている。 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、楠木正成の軍が元弘2年/元徳4年(1333年)12月に芥川付近まで進出した際、六波羅探題は宇都宮公綱と円心の軍を派遣して楠木軍を忍頂寺付近にまで退けた。 しかし、元弘3年(1333年)1月21日、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵した。初め一族の高田氏が幕府方に内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。その菩提寺である了宅庵において自害に追い込んだ。続いて六波羅探題の命を受けた備前国の守護・加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦い、盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国からの幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始した。 この後、室山に陣を築いて反幕府方の諸豪族の参集を待った後、白川郷,山田村小部郷,石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。赤松軍を討つため六波羅は佐々木時信などの軍を派遣。2月11日には早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍が得意とした野伏り戦を展開し撃退した。 勢いを駆った円心は尼崎の久々知に陣取り、24日には酒部に進出。3月10日に六波羅軍1万が瀬川に布陣し、3男・則祐の活躍で敵を蹴散らした。これに対し、六波羅側も新手の河野・陶山を初め、兵を大量に投入したため、これまで破竹の進撃をしていた円心軍は総崩れとなり、急ぎ男山まで逃れた。再度京都へ攻め込む。 3月27日に鎌倉から派遣された追討軍の大将軍・名越高家,足利高氏の出陣を知ると迎撃に出陣、久我畷の合戦において佐用範家が名越高家を討ち取った。この戦の後、高氏は畿内の領地である丹波篠村へ向かい、兵を集めて2万3,000騎で反幕府として挙兵した。円心も5月8日に千種忠顕や結城親光,高氏らに合流して京都を包囲、六波羅を陥落させた。関東では新田義貞,足利義詮が鎌倉を落とし、元弘の乱は終結した。 鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、共に倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年 (1334年)に失脚すると、円心の新政における立場も失われ、恩賞の内容に激怒した円心は佐用庄へ帰っている。 足利尊氏が建武政権から離反すると、円心は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松の白旗城で迎え撃った。義貞率いる討伐軍は、円心以下2,000の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上くぎ付けにされた。 その間、尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、九州を制圧。西国の武士を軒並み味方に加えながら、軍勢を海と陸の二手に分けて東上を開始した。足利軍東上の知らせに新田軍の士気は極端に低下し、さらに、白旗城を出てきた赤松軍の追撃も受け、総崩れとなって兵庫まで逃げ延びた。尊氏は白旗城から撤退した新田軍に5月25日の湊川の戦いで勝利、翌年に範資が摂津守護に任命され、赤松氏は2ヶ国の守護となった。ただし、播磨には義貞の同族に当たる金谷経氏が残って播磨丹生山で挙兵したため、円心は延元3年/暦応元年(1338年)から興国3年/康永元年(1342年)まで範資・則祐と共に反乱鎮圧に費やすことになる。 尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においては尊氏に従い、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死した。享年74。家督と播磨守護は範資が相続したが、翌年に範資も急死したため、摂津守護は孫の光範に、家督と播磨守護は則祐に受け継がれた。 墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。
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