在田氏は、播磨国加茂郡在田を名字の地とし、赤松円心の長男である美作守範資の次男・朝範(朝則)を祖とする、というのが通説である。朝範は叔父である守護・赤松則祐の養子となり、一家をたてて「在田殿」と呼ばれたという。赤松氏の庶流であるとはいえ、守護たる惣領家にとって本来は本家筋にあたる。文和4年(1355年)2月、足利尊氏の子・義詮が南朝軍と摂津神南山に戦って勝利を得たとき、赤松朝範は義詮に属して奮戦し、九死に一生を得たという。 |
永正18年(1521年)9月、浦上村宗が赤松義村を暗殺して領国支配の実権を握り、西播磨・東備前をその掌中におさめると、これに反発する勢力は浪人となり、義村の子・才松丸(政村のち晴政)を擁して村宗と戦った。この頃、在田氏は多可郡の野間に本拠地を移しており、同地に本格的に野間城を築いてそこに拠っていた。在田氏は反村宗派に一味して浪人衆を引き入れ、野間は北播磨における反村宗派の拠点となった。 享禄元年(1528年)、将軍・足利義晴は赤松政村およびその被官に播磨東西の和睦を図るように求めている。浦上村宗,在田源次郎にも御内書が出された。しかし、享禄2年,3年(1529,30年)の二度にわたって「名城にありける有田」の城が浦上村宗によって落された。が、4年(1531年)には村宗が摂津天王寺で討死したため、事なきを得た。 天文7年(1538年)には、出雲国の戦国大名尼子氏が播磨に侵攻。国人の多くが赤松晴政に離反したため、晴政は淡路に逃走した。翌年、晴政は明石城を攻略、4月、印南郡神吉の常楽寺に陣した。このとき、在田氏は晴政を支援するため神吉へ参陣している。これらのことは在田村長の時代のことであったと思われる。
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