村上源氏

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北畠顕家 北畠顕成

 顕家は建武の新政が開始された1333年(元弘3年/正慶2年)に従三位陸奥守となる。翌1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥国の多賀城に下向し、東北地方経営を始める。同年、従二位に叙任し、1335年(建武2年)鎮守府将軍に任ぜられる。
 同年、足利尊氏軍が鎌倉にて建武政権に反旗を翻し、京都へ迫ったため、顕家は12月、奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京し、これを新田義貞,楠木正成とともに破り、京より追い出す。翌1336年(建武3年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる(豊島河原合戦)。
 3月、権中納言に任官、蜂起した足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。1337年(延元2年/建武4年)には足利方に多賀城を攻略されるが、この時は顕家は国府を霊山に移していたため難を逃れる。同年9月、武蔵国児玉郡浅見山周辺域で、薊山合戦を起こす。
 1338年(延元3年/建武5年)5月、再び西上して足利方と戦い、義良親王を奉じて鎌倉を攻略する。美濃国青野原の戦いで足利方に勝利したものの、兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め伊勢に後退し、次いで伊賀に進出した。以後も奈良などを中心に高師直の大軍を相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦石津に追い詰められ、なおも奮戦したものの、予定していた味方の援軍到着遅延のために高師直軍との戦いでは劣勢に回り全軍は潰走。その後、共廻り等200騎を従えて奮戦したが戦死した(石津の戦い)。享年21。
 なお、武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる。

 後醍醐天皇のために忠死した北畠顕家の遺児であることから、南朝で相当の寵愛を受けていたであろうと想像されるが、それを物語る史料は確認できない。正平一統の正平7年(1352年)1月に従四位上に昇叙したのが初見。やがて累進して公卿に列し、天授4年/永和4年(1378年)従二位権大納言に叙任されたというが、さらに内大臣へ昇進したことを示唆する史料があり、これが極官と思われる。一説には、出家して行意と号したとされる。『南朝公卿補任』には元中3年2月28日(1386年3月28日)に薨去したと伝えるが、定かではない。
 北畠氏が浪岡に入部したのは、一説に霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子顕成は叔父の顕信とともに北奥羽に逃れたときだという。一方、顕家の死後、顕家の子・顕成,孫・顕元は南部氏に庇護されて稗貫の船越に住み、のちに浪岡に移ったともいう。また、『応仁武鑑』の「浪岡記」によれば、鎮守府将軍・藤原秀衡の末子・頼衡が津軽の外ケ浜に逃れて行岡(浪岡)に住み、行岡氏を称した。その曾孫・行岡右兵衛大夫秀種は顕家に仕え、娘が顕成を生んだ。顕家の死後、顕成は外祖父の右兵衛大夫を頼り、のちに所領を譲られたことが浪岡北畠氏の始まりとする説もある。このほかにも北畠氏が浪岡に移った時期については諸説ある。
 浪岡北畠氏の初代になったという顕成の娘は、十三湊安東太郎貞季の妻になったといわれる。また、糠部南部氏は一貫して南朝方として行動し、北畠氏を庇護してきたが、その後南部氏は幕府に帰順した。そのため、公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移したのだという。このとき、浪岡(行岡)で顕成父子を迎えたのが顕家の娘を妻にしていた安東貞季であったという。 

浪岡具運 浪岡顕村

 祖父・具永や父・具統と同じく朝廷から高位の官位に叙任された。
 北畠具信による川原御所の乱が永禄5年(1562年)に起き、この事件によって浪岡氏は大きく衰退したとされる。この事件で殺害されたのは具運とされてきたが、『補略』と総称される公家名簿には、具運は元亀2年(1571年)時点に従五位下侍従となり、天正4年(1576年)までの存命が認識されており、再検討の必要性が指摘されている。また、この乱により、殺害された「御所様」は浪岡具統である可能性も指摘されている。

 川原御所の乱で父・具運が暗殺された後、叔父・顕範の後見を受けて家督を継いだ。しかし浪岡氏の勢力は衰える一方であり、天正6年(1578年)に津軽為信に本拠の浪岡城を攻め落とされる。このとき捕らえられて自害させられたとも、落ち延びて舅の安東愛季を頼り、慶長9年(1604年)に死去したとも言われている。
 子孫は三春藩の秋田家に仕え、代々秋田の姓を名乗ったが、隠居や庶子は浪岡の姓を名乗ったという(三春浪岡氏)。

浪岡顕範 浪岡顕忠

 浪岡具統の次男。当主となった兄・具運の補佐を務めたが、永禄5年(1562年)に河原御所の乱で具運が叔父の具信に殺害されると、即座に具信を討ち取って兄の嫡男である顕村を新たな当主に擁立し、その後見役を務めた。
 天正6年(1578年)、津軽為信に攻められて浪岡北畠氏が滅亡した時に津軽軍に討ち取られたといわれる。 

 北陸奥の名族・浪岡氏の浪岡顕範の嫡男として生まれる。大叔父の川原御所北畠具信が、永禄5年(1562年)叔父の宗家浪岡氏当主・浪岡具運を殺害(川原御所の乱)すると、同年4月5日(1月3日とも)父・顕範と共に川原館の北畠具信らを攻め滅ぼした。そして、父と共に具運の息子・顕村を後見した。天正6年(1578年)、病没。 
秋田慶好 浪岡具信
 浪岡顕範の嫡男顕忠の子とも、浪岡氏最後の当主・浪岡顕村の子ともいわれる。浪岡氏滅亡後、安東氏を頼って落ち延びる。愛季・実季に仕えて主に外交を担当した。男鹿脇本城下の岩倉に居住したことと、愛季から「季」の字を賜ったことから、岩倉季慶を名乗る。後に功により「湊」,「秋田」の姓も賜り、一門として遇された。その後、主君秋田家の宍戸への転封にも従った。   浪岡北畠家の当主・浪岡具永の庶子といわれる。父の命令で、断絶していた分家の河原御所の家柄を継いだ。所領問題で甥の浪岡具運(北畠具運)と争い、永禄5年(1562年)に具運を暗殺した(河原御所の乱)。しかし自らも具運の弟・浪岡顕範(北畠顕範)によって殺された。この河原御所の乱は、結果的に浪岡北畠氏の衰退を招くことになる。