| G828:北畠雅家 | 源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 中院通方 ― 北畠雅家 ― 北畠顕家 | G829:北畠顕家 | ● |

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| 北畠顕家 | 北畠顕成 |
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顕家は建武の新政が開始された1333年(元弘3年/正慶2年)に従三位陸奥守となる。翌1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥国の多賀城に下向し、東北地方経営を始める。同年、従二位に叙任し、1335年(建武2年)鎮守府将軍に任ぜられる。 |
後醍醐天皇のために忠死した北畠顕家の遺児であることから、南朝で相当の寵愛を受けていたであろうと想像されるが、それを物語る史料は確認できない。正平一統の正平7年(1352年)1月に従四位上に昇叙したのが初見。やがて累進して公卿に列し、天授4年/永和4年(1378年)従二位権大納言に叙任されたというが、さらに内大臣へ昇進したことを示唆する史料があり、これが極官と思われる。一説には、出家して行意と号したとされる。『南朝公卿補任』には元中3年2月28日(1386年3月28日)に薨去したと伝えるが、定かではない。 |
| 浪岡具運 | 浪岡顕村 |
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祖父・具永や父・具統と同じく朝廷から高位の官位に叙任された。 |
川原御所の乱で父・具運が暗殺された後、叔父・顕範の後見を受けて家督を継いだ。しかし浪岡氏の勢力は衰える一方であり、天正6年(1578年)に津軽為信に本拠の浪岡城を攻め落とされる。このとき捕らえられて自害させられたとも、落ち延びて舅の安東愛季を頼り、慶長9年(1604年)に死去したとも言われている。 |
| 浪岡顕範 | 浪岡顕忠 |
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浪岡具統の次男。当主となった兄・具運の補佐を務めたが、永禄5年(1562年)に河原御所の乱で具運が叔父の具信に殺害されると、即座に具信を討ち取って兄の嫡男である顕村を新たな当主に擁立し、その後見役を務めた。 |
北陸奥の名族・浪岡氏の浪岡顕範の嫡男として生まれる。大叔父の川原御所北畠具信が、永禄5年(1562年)叔父の宗家浪岡氏当主・浪岡具運を殺害(川原御所の乱)すると、同年4月5日(1月3日とも)父・顕範と共に川原館の北畠具信らを攻め滅ぼした。そして、父と共に具運の息子・顕村を後見した。天正6年(1578年)、病没。 |
| 秋田慶好 | 浪岡具信 |
| 浪岡顕範の嫡男顕忠の子とも、浪岡氏最後の当主・浪岡顕村の子ともいわれる。浪岡氏滅亡後、安東氏を頼って落ち延びる。愛季・実季に仕えて主に外交を担当した。男鹿脇本城下の岩倉に居住したことと、愛季から「季」の字を賜ったことから、岩倉季慶を名乗る。後に功により「湊」,「秋田」の姓も賜り、一門として遇された。その後、主君秋田家の宍戸への転封にも従った。 | 浪岡北畠家の当主・浪岡具永の庶子といわれる。父の命令で、断絶していた分家の河原御所の家柄を継いだ。所領問題で甥の浪岡具運(北畠具運)と争い、永禄5年(1562年)に具運を暗殺した(河原御所の乱)。しかし自らも具運の弟・浪岡顕範(北畠顕範)によって殺された。この河原御所の乱は、結果的に浪岡北畠氏の衰退を招くことになる。 |