村上源氏

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北畠雅家 北畠師重

 建保3年(1215年)、中院家の祖である源通方の次男として誕生。母は権中納言・源雅頼の娘。弟・中院通成は生母が鎌倉幕府執権・北条氏と親交が深かった一条能保の娘であったため中院家の嫡子とされたが、一方で源雅頼の娘を生母に持つ雅家は庶子とされた。のちに洛北の北畠に邸宅を構え、北畠を称した。北畠家が歴史の表舞台に登場するのは曾孫の親房の代からである。
 文永12年(1274年)3月27日、死去。享年61。 

 文永8年(1271年)1月、正親町院の当年御給により、2歳で叙爵される。以後、石見守・左近衛中将を経て、正応4年(1291年)3月に後宇多上皇の当年御給により、従三位に叙されて公卿となった。以降順調に累進し、嘉元元年(1303年)8月には権大納言に任じられた。
 嘉元3年(1305年)9月、亀山法皇の崩御に際しては素服を賜ったが、除服後の12月には権大納言を辞して、長男・親房を権左中弁に申任し、直後に本座を聴許される。徳治2年(1307年)7月、後宇多上皇の落飾に殉じて出家し、法名を経覚(一説に深覚)という。以来、遁世隠居の身で過ごすこと15年、元亨2年(1322年)1月13日薨去した。享年53。 

北畠親房 北畠顕信

 1293年(永仁元年)の正月(旧暦)に生まれる。生後わずか半年で五位に叙される。15歳の時に自分の同役に本来なら任命されるべきでない官位の低い人物が任命されたことに抗議して後二条天皇に辞表を出すなど剛直な面を見せる。後伏見院政下の18歳で参議に任じられ、翌年に検非違使別当を務めた。1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子・世良親王の養育を託される。吉田定房,万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。これまで北畠氏には許されていなかった源氏長者・大納言に任命されるが、1330年(元徳2年)、世良親王急死の責任を感じて38歳の若さで出家して政界から一旦は引退している。従って、正中の変にはじまる後醍醐の鎌倉幕府倒幕計画には加担してはいなかったようである(その一方で父・師重の従兄弟にあたる北畠具行が元弘の変で処刑されている)。
 鎌倉幕府が倒され、後醍醐の建武の新政が開始されると、親房は再び政治の舞台へ登場する。奥州鎮定を命じられた息子・北畠顕家に随行し、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。1335年(建武2年)、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従い、北朝と対抗する。
 1338年(延元3年/暦応元年)に息子・顕家が戦死した後、親房は伊勢において、度会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受ける。その後、関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊から海路東国へ渡ろうとするが、暴風に遭い両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城へと移る。親房は陸奥国白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかける。『神皇正統記』『職源鈔』の執筆がされたと言われているのはこの時期である。1340年(興国元年/暦応3年)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、小田氏に見限られた親房は関宗祐の関城に入り、大宝城の下妻氏,伊佐城の伊佐氏など常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、1343年(興国4年/康永2年)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。
 1348年(正平3年/貞和4年)に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。後醍醐の死後は後村上天皇を補佐するが、1354年(正平9年/文和3年)に賀名生で薨去。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。室生寺に親房のものと伝えられる墓がある。

 延元元年/建武3年(1336年)に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、伊勢国司に任官される。『太平記』には、兄・顕家に随伴して上洛し、美濃青野原や山城男山で北朝軍と兵刃を交えた、と記述されているが、これは春日顕国の事跡との混同とされる。
 延元3年/暦応元年(1338年)、兄の死後、鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇皇子の義良親王,宗良親王に供奉して父・親房と共に陸奥国に赴こうとしたが、途中で暴風にあって頓挫し吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。多賀城を一時占領するが、結局北朝方の反撃を受け失敗する。霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動する。
 正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城。顕信は滴石城に退いたのち出羽国に退却する。正平6年/観応2年(1351年)、観応の擾乱の影響により奥州管領同士の争いが起こると南朝側は勢いを盛り返し、羽州国府寺や阿谷の合戦などで吉良軍を次々と破り、ついには11月広瀬川の戦いで北朝軍を総崩れにさせた。この結果、多賀城奪還に成功するが、翌年吉良貞家により多賀城を追われてしまう。顕信と守永親王は宇津峰城に移るが、吉良貞家の攻撃によって正平8年/文和2年5月(1353年)ここも落城。出羽国へ逃れたとされる。正平13年/延文3年(1358年)、足利尊氏が没すると南朝の活動が全国的に活発になるが、顕信は同年8月鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書を納めていることから、この時期出羽にいたと思われる。これ以後の生死は明らかでないが、後世に残された発給文書から1362年頃までは陸奥で活動を続けていたと推定される。それ以降の足跡については、吉野に帰還して右大臣を務めたとも、九州に下向し懐良親王を補佐したとも言われる。また、津軽に落ち延びて浪岡氏の祖となった説もある。

北畠守親 北畠顕統

 正平6年/観応2年(1351年)に北畠顕信から某へ国司交替が認められるため、この新国司を守親に比定するのが古来通説である。新国司は、正平7年/観応3年(1352年)初めには宇津峰城にいたと思われ、閏2月武蔵野合戦の新田軍を支援すべく奥州勢を率いて白河関まで南下し、先鋒を宇都宮公綱勢と合わせて進軍させた。しかし、3月に足利尊氏の命を受けた結城朝常に撃退されたため、南下作戦は失敗し、顕信と相前後して宇津峰に帰陣。正平8年/文和2年(1353年)5月、吉良貞家の攻撃で城が陥落すると、宇津峰宮を奉じて顕信と出羽(庄内地方か)に逃れたらしい。
 その後の戦歴は史料に明らかでないが、近世の俗書によれば、正平13年/延文3年(1358年)または正平16年/延文6年(1361年)敗れて海路で南朝に帰参した後、大和宇陀郡に止住した。官途は近衛中将や権中納言を経て、天授2年/永和2年(1376年)大納言に任じられるも、天授6年/康暦2年(1380年)父の喪に遭い辞職したという。
 子の親能(弟の親統とも)は戦禍を逃れて陸奥浪岡に入部し、その子孫は川原御所に居住したと伝えられるが、歴代城主が不明なこともあり、宗家浪岡御所の系譜と混淆して識別困難である。現在、川原御所跡南東の「さぎ森〕には、守親の墓と伝えられる五輪塔が残る。 

 冷泉顕統とも。父とともに早くから南朝に仕えたようであるが、具体的な官歴は不明である。正平2年/貞和3年(1347年)12月、権左中弁兼左近衛少将として親房の『職原抄』を書写し、この顕統本が流布の初めとなった。次いで正平5年/観応元年(1350年)7月には蔵人頭右大弁であり、正平10年/文和4年(1355年)6月にも同じ署名を残した。正平16年/康安元年(1361年)までに公卿の列に加わったとみられる。南朝末期歌壇の有力歌人である。 
北畠具行

 北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房とともに後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。
 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も主要メンバーの一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌1332年(元弘2年)、京極高氏(佐々木道誉)によって鎌倉に護送される途中、幕府の命により近江国柏原で斬られた。処刑前に具行は高氏の丁重な扱いに感謝の意を述べたと伝わる。「ばさら」と呼ばれた高氏は、公家である具行を終始忌み嫌っていたが、死に臨んでの具行の態度には高氏も感服して、その別れを惜しんだと言う。