| G826:中院通方 | 源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 中院通方 ― 北畠雅家 | G828:北畠雅家 |


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| 北畠雅家 | 北畠師重 |
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建保3年(1215年)、中院家の祖である源通方の次男として誕生。母は権中納言・源雅頼の娘。弟・中院通成は生母が鎌倉幕府執権・北条氏と親交が深かった一条能保の娘であったため中院家の嫡子とされたが、一方で源雅頼の娘を生母に持つ雅家は庶子とされた。のちに洛北の北畠に邸宅を構え、北畠を称した。北畠家が歴史の表舞台に登場するのは曾孫の親房の代からである。 |
文永8年(1271年)1月、正親町院の当年御給により、2歳で叙爵される。以後、石見守・左近衛中将を経て、正応4年(1291年)3月に後宇多上皇の当年御給により、従三位に叙されて公卿となった。以降順調に累進し、嘉元元年(1303年)8月には権大納言に任じられた。 |
| 北畠親房 | 北畠顕信 |
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1293年(永仁元年)の正月(旧暦)に生まれる。生後わずか半年で五位に叙される。15歳の時に自分の同役に本来なら任命されるべきでない官位の低い人物が任命されたことに抗議して後二条天皇に辞表を出すなど剛直な面を見せる。後伏見院政下の18歳で参議に任じられ、翌年に検非違使別当を務めた。1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子・世良親王の養育を託される。吉田定房,万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。これまで北畠氏には許されていなかった源氏長者・大納言に任命されるが、1330年(元徳2年)、世良親王急死の責任を感じて38歳の若さで出家して政界から一旦は引退している。従って、正中の変にはじまる後醍醐の鎌倉幕府倒幕計画には加担してはいなかったようである(その一方で父・師重の従兄弟にあたる北畠具行が元弘の変で処刑されている)。 |
延元元年/建武3年(1336年)に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、伊勢国司に任官される。『太平記』には、兄・顕家に随伴して上洛し、美濃青野原や山城男山で北朝軍と兵刃を交えた、と記述されているが、これは春日顕国の事跡との混同とされる。 |
| 北畠守親 | 北畠顕統 |
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正平6年/観応2年(1351年)に北畠顕信から某へ国司交替が認められるため、この新国司を守親に比定するのが古来通説である。新国司は、正平7年/観応3年(1352年)初めには宇津峰城にいたと思われ、閏2月武蔵野合戦の新田軍を支援すべく奥州勢を率いて白河関まで南下し、先鋒を宇都宮公綱勢と合わせて進軍させた。しかし、3月に足利尊氏の命を受けた結城朝常に撃退されたため、南下作戦は失敗し、顕信と相前後して宇津峰に帰陣。正平8年/文和2年(1353年)5月、吉良貞家の攻撃で城が陥落すると、宇津峰宮を奉じて顕信と出羽(庄内地方か)に逃れたらしい。 |
冷泉顕統とも。父とともに早くから南朝に仕えたようであるが、具体的な官歴は不明である。正平2年/貞和3年(1347年)12月、権左中弁兼左近衛少将として親房の『職原抄』を書写し、この顕統本が流布の初めとなった。次いで正平5年/観応元年(1350年)7月には蔵人頭右大弁であり、正平10年/文和4年(1355年)6月にも同じ署名を残した。正平16年/康安元年(1361年)までに公卿の列に加わったとみられる。南朝末期歌壇の有力歌人である。 |
| 北畠具行 | |
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北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房とともに後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。 |