清和源氏

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喜連川国朝 喜連川頼氏

 元亀3年(1572年)、足利頼純の嫡男として誕生。すなわち小弓公方・足利義明の孫にあたる。16世紀末期、関東公方の末裔である古河公方と、それから分裂した小弓公方は後北条氏に圧迫されて凋落し、第一次国府台合戦で戦死した義明の遺児である頼純は安房国の里見義康に庇護され、頼純の子の国朝・頼氏兄弟も里見氏の下で育った。
 天正18年(1590年)、小田原征伐で後北条氏を滅ぼし関東を平定した豊臣秀吉は、足利頼純に対して下野国喜連川の地に400貫の領地を与えた。さらに翌年3月7日、秀吉は古河公方義氏の娘・氏姫(氏女)と国朝の結婚を命じ、これ以降、国朝とその後裔は「喜連川」の苗字を称した。秀吉によるこれらの措置は、名家である足利家の血筋が絶えることを惜しんだためとする見解が一般的だが、後北条氏の後に関東を領することとなった徳川家康への牽制効果を期待して、なお影響力が残っていた関東公方の権威を利用しようとしたとの指摘もある。しかし、古河公方の跡取り娘である氏姫と、古河公方から離反して小弓公方を興した義明の孫である国朝の結婚は秀吉による政略的な要素が強く、国朝が秀吉から与えられた喜連川の所領に居住したのに対して、氏姫たちは古河の鴻巣館で暮らし続け、のちの喜連川藩立藩の際にも喜連川には足を踏み入れなかったという。結局、国朝と氏姫の間に子は生まれなかった。
 文禄元年(1592年)、国朝は足利氏所縁の寺である鑁阿寺の中御堂を再建しているが、翌文禄2年2月1日(1593年3月3日)、文禄の役に従軍して肥前国名護屋に赴く途上の安芸国海田にて、22歳で病死した。喜連川の璉光院に葬られた。
 国朝の没後、氏姫は秀吉の命によって国朝の弟・頼氏と再婚して義親を産み、これにより古河公方と小弓公方の家系は統合されて喜連川家が成立した。

 天正8年(1580年)、足利頼純の次男として誕生した。文禄2年(1593年)2月、兄・国朝が文禄の役のため九州に赴く途上、安芸国で病死するため、同3年(1594年)、上洛して豊臣秀吉に謁見し、遺領を継ぐこととなった。このとき、国朝の室であった足利氏姫を娶った。
 慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると、10月20日から頼氏は関東十刹についての公帖を発給しはじめる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、頼氏は会津の上杉景勝を押さえる結城秀康に従って本拠地の喜連川城に在陣し、その戦功を評価され、慶長7年(1602年)、家康から1000石を加増された。
 元和2年(1616年)正月の年頭御礼の際、頼氏の順番は国持大名と諸大夫の間に位置づけられており、太刀目録の進上については徳川国松,松平忠直,徳川御三家と同じ方法が用いられている。喜連川藩の知行地はわずか5000石弱に過ぎなかったが、江戸幕府を開いた徳川家康から足利氏末流の名族として重んじられ、10万石並の国主格大名の待遇を受けた。
 寛永7年(1630年)6月13日、死去。51歳。龍光院に葬られた。嫡孫・尊信が跡を継いだ。 

喜連川茂氏 足利縄氏

 元禄13年(1700年)12月2日(もしくは元禄15年(1702年))、第4代藩主・喜連川氏春の長男として生まれる。享保2年(1717年)5月15日、徳川吉宗に御目見し、享保6年(1721年)に父が死去したため跡を継いだ。弓術に秀で、一寸の強弓を扱うことで知られた。宝暦7年(1757年)12月25日、次男の氏連に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月15日に死去した。
 民政に尽力し、特に治安の安定によく努めたという。そのため、茂氏の治世のもとで喜連川藩は一度も盗賊が現れず、夜も戸締りの必要なしとまで謳われ、茂氏自身も「民政安定の名君」と称された。しかし、晩年は子の氏連が先立って若死にするなど、不幸でもあったという。


 天保15年(1844年)4月7日、水戸藩主.・徳川斉昭の11男(庶子)として生まれる。幼名は余一麿、初名は父より偏諱を受け昭縄。文久2年(1862年)6月28日、喜連川藩主・喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継いだ。喜連川家の通字により諱を縄氏に改め、通称として左馬頭を称する。同年閏8月4日、第14代将軍徳川家茂に御目見する。
 明治元年(1868年)5月28日、新政府に対し、病気の藩主・縄氏に代わり、重臣を上洛させることを願う(第15代将軍となっていた実兄の徳川慶喜との直接的な対立を避ける意図もあったと思われる)。同年7月9日、新政府軍に対し、兵糧の献上を許可される。同年7月15日、新政府軍に対し会津藩に内通していると讒言を行った藩士・二階堂安芸・主殿輔父子らの処分を命じる。同年8月8日、肥前藩兵とともに白河に藩兵を派遣する。同年、足利に復姓する。
 明治2年(1869年)5月5日、病気を理由に養子の聡氏(実子の足利於菟丸はまだ生まれていなかった)に家督を譲って隠居し、明治7年(1874年)3月2日に死去した。 

足利聡氏 足利於菟丸

 幕臣1400石高家職・宮原摂津守義直の次男として江戸に生まれる。明治2年(1869年)4月8日に先代・縄氏の養嗣子となり、同年5月5日に縄氏が隠居したために家督を相続した。同年6月18日従五位下・左馬頭に叙任。
 明治3年(1870年)7月18日に版籍奉還し、喜連川藩は日光県に合併された。同日に東京在住を命じられ、明治4年(1871年)2月5日に永世禄として現米193石を下賜された。足利氏に復姓する。
 明治9年(1876年)9月3日病のため隠居、先代縄氏の長男・足利於菟丸を養嗣子とし家督を譲る。同年9月25日、実家宮原氏へ復籍する。なお、隠居・離籍の本当の理由は、債務返済の行き詰まりのためであった。

 下野喜連川藩11代藩主・喜連川(足利)縄氏の長男で、12代藩主・足利聡氏の養子。父・縄氏が隠居した後に生まれた。1876年(明治9年)、養父・聡氏の隠居に伴い、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1935年(昭和10年)に隠居し、家督を長男・足利惇氏に譲る。1943年(昭和18年)死没。