<藤原氏>北家 高藤流

F457:上杉憲顕  藤原高藤 ― 甘露寺為輔 ― 高倉説孝 ― 高倉盛実 ― 上椙盛憲 ― 上杉憲顕 ― 宮原義照 F460:宮原義照

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宮原義照 宮原義久

 祖父は足利晴直(上杉憲寛)である。『寛政重修諸家譜』によれば、義照から宮原姓を称したという。天正18年(1590年)徳川家康に御目見をする。下野国足利郡内において1040石を与えられて、諸役免除を申し渡される。天正19年(1591年)足利郡駒場村に居所を移す。それまでは上総国宮原を居所にしていたようである。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際しては徳川秀忠に従い、上田城攻めに参加した。慶長7年(1602年)1月10日死去、27歳。正妻,子女ともにいなかったため、実弟の義久を養子に迎えた。 

 慶長7年(1602年)、兄・義照の死去により家督を相続する。『寛政重修諸家譜』によれば、「格式無官の高家となされ、采地に住し、随意に参府し奉仕すべし」との仰せを受けたという。後の表高家とほぼ同様の処遇を受けたと推測される。また、将軍徳川家康から、武田勝頼の娘・貞との結婚と、当主および嫡子のみが宮原姓を称し、庶子は穴山姓を称することを命じられた。大坂の陣には将軍徳川秀忠に従い出陣し、二条城の守備などを担当した。寛永7年(1630年)12月5日死去、54歳。 
宮原義周 宮原義直
 高家旗本・宮原義潔の養嗣子・義利(義潔の実弟)の養子となる。養父・義利は家督を相続する前に死亡したものと推測される。享和元年(1801年)12月15日、将軍徳川家斉に御目見する。文化2年(1805年)閏8月9日、部屋住ながら高家見習に召し出される。同年12月16日従五位下侍従・摂津守に叙任する。後に弾正大弼に改める。同年12月21日高家職に就く。文化6(1809年)12月27日。家督相続。文化14年(1817年)11月1日従四位下に昇進する。文政5年(1822年)6月25日、高家肝煎に就任する。文政8年(1825年)10月23日従四位上に昇進する。文政10年閏6月15日に左少将に任官する。天保8年(1837年)11月13日正四位下に昇進する。安政元年(1854年)9月22日には老齢と病気を理由に高家肝煎を辞職する。安政2年(1855年)11月16日隠居し、息子義直に家督を譲る。安政5年(1858年)死去、76歳。 

 文政10年(1827年)12月15日、将軍徳川家斉に御目見する。文政11年(1828年)11月4日、部屋住ながらも高家見習に召し出される。同年12月16日、従五位下侍従・摂津守に叙任する。後に従四位下に昇進する。安政元年(1854年)9月27日、高家肝煎に就任する。安政2年(1855年)11月16日、父・義周の隠居により家督を相続する。慶応4年(1868年)3月11日、高家肝煎を辞職する。
 維新の際に公武間を周旋して政治上の功績があり、和歌・書画・茶道にも秀でていたという。


宮原聡氏(足利聡氏) 宮原義路

 幕臣1400石高家職・宮原摂津守義直の次男として江戸に生まれる。明治2年(1869年)4月8日に先代・喜連川縄氏の養嗣子となり、同年5月5日に縄氏が隠居したために家督を相続した。同年6月18日従五位下・左馬頭に叙任。
 明治3年(1870年)7月18日に版籍奉還し、喜連川藩は日光県に合併された。同日に東京在住を命じられ、明治4年(1871年)2月5日に永世禄として現米193石を下賜された。足利氏に復姓する。
 明治9年(1876年)9月3日、病のため隠居、先代縄氏の長男・足利於菟丸を養嗣子とし家督を譲る。同年9月25日、実家宮原氏へ復籍する。なお、隠居・離籍の本当の理由は、債務返済の行き詰まりのためであった。大正10年(1921年)1月21日に死亡。享年62。家督は子の巌夫が相続した。 

 実祖父・戸田氏倚は高家旗本であったことから、高家旗本の宮原義直の養子に迎えられたと推測される。実父・豊常は高家旗本戸田家から旗本岡部家に養子入りしていた。
 安政6年(1859年)12月1日将軍徳川家定に御目見する。同年12月8日高家見習に就任する。同年12月16日従五位下侍従・民部大輔に叙任する。後に弾正大弼に改める。同年12月24日、高家職に就く。明治元年(1869年)7月3日、明治新政府から謹慎を解かれる。それ以前に新政府側に対し、敵対的な姿勢を取り、謹慎処分を受けていたと推測される。
 その後、義次郎と改名し、明治8年に旧知行地の栃木県駒場村へ移住し、同10年に同村三柱神社の祠掌を拝命している。