清和源氏

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足利基氏 足利氏満

 足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父・尊氏は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄・義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349年)に次男である基氏を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
 『鎌倉九代後記』によれば、基氏は約6年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。父の死後、南朝方の新田義興を滅ぼすと共に、正平16年/康安元年(1361年)には執事として基氏を補佐していた畠山国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至る。後任には一時、高師有を用いるが、正平18年/貞治2年(1363年)6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せる。
 この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られる。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可を基氏は武蔵苦林野で撃退した上、宇都宮征伐に向かう。途中の小山で小山義政の仲介の元、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固める。また、夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、五山文学や禅の普及を奨励するなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。
 正平22年/貞治6年(1367年)に死去、享年28。死因ははしかと伝わる。
 基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家の1つは、江戸時代には喜連川家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名になる。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。


 正平22年/貞治6年(1367年)4月、父・基氏の死去をうけて鎌倉公方となる。ただし幼少のため、5月に京都から佐々木道誉が下向、引継ぎの事務に携わっている。
 公方となって間もない正平23年/貞治7年(1368年)1月に武蔵平一揆の乱が起こるが、10歳という幼少ながら自ら軍勢を率いて河越に出陣。京都から引き返した関東管領・上杉憲顕も加わって、同年6月17日には平一揆を鎮圧した。同年9月19日に憲顕が亡くなった後は憲顕の息子・能憲と甥の朝房が関東管領に就任、2人の補佐を受けた。能憲の死後は能憲の兄弟で関東管領を継いだ上杉憲春と共に宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成した。翌正平24年/応安2年(1369年)1月21日に元服、従兄で第3代将軍の足利義満の偏諱を受けて氏満と名乗った。
 天授5年/康暦元年(1379年)、中央で室町幕府内部の抗争である康暦の政変が起こると、それに呼応して将軍・足利義満に対して挙兵しようとしたが、憲春が自刃して諌めたために断念した。しかし、このことはやがて京都に伝わり、氏満は謝罪の使者を送るほかなかった。これを機に義満は氏満への圧迫を強め、氏満の教育係であった義堂周信を強引に招請し、義満と結ぶ新しい関東管領・上杉憲方(憲春の兄弟)の圧迫もあってこれを認めざるを得なくなったのである。
 その後、氏満は関東の親幕府派や南朝方の武家などを攻撃して自己の権力拡大に結び付ける路線を取った。すなわち、新田氏や小山氏,小田氏,田村庄司氏などを次々と討伐していった。特に小山氏の乱においては北関東有数の名門武家であった小山氏を徹底的に滅ぼして、上杉氏や関東の有力武家たちに対する牽制とした。
 元中9年/明徳3年(1392年)、氏満は義満から陸奥や出羽の統治も任された。その背景には伊達氏や白河結城氏など有力武家を奥州管領が十分に統率できなかったことや前年に発生した明徳の乱を受けて鎌倉府の離反を阻止する意図があったとみられている。だが、これによって義満と氏満、あるいは鎌倉の鎌倉府と京都の将軍家と対立が解消されることはなく、氏満の子・満兼、孫の持氏と代を重ねるごとに拡大し、両家の本格的な抗争につながっていく。
 応永5年(1398年)に病没。享年40。早世だが、父が没した正平22年/貞治6年(1367年)から31年にわたって鎌倉公方を務めており、在職期間は歴代公方の中では最長である。  

足利満直 足利満兼

 応永5年(1398年)の足利氏満の急死をきっかけに鎌倉府の奥州統治体制の再編成を迫られ、翌応永6年(1399年)に新しい鎌倉公方となった兄・満兼の命により陸奥国安積郡に派遣、下向して篠川に本拠地を置き「篠川御所」と呼ばれた。
 篠川・稲村両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務と考えられる。安積郡は伊東氏の勢力圏で、満直は伊東氏や岩瀬郡の二階堂氏、白河郡の白河結城氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している(伊達家第9代当主・伊達政宗、11代当主・伊達持宗の反乱など)。
 応永6年には早くも伊達政宗が鎌倉府からの所領要求に怒り、翌7年(1400年)に大崎詮持と呼応して反乱を起こした。応永20年(1413年)4月には政宗の孫・持宗も所領問題から両御所に反乱を起こしている。この戦いでは両御所や結城満朝は討伐に動かなかったため、満直の甥である鎌倉公方・足利持氏が政宗の時と同じく直接軍勢を派遣した。
 やがて、満直と持氏の関係が悪化する。応永30年(1423年)、室町幕府は満直を鎌倉公方に擁立する方針を立てると、稲村御所の満貞はあくまでも持氏を支持し鎌倉に退去した。幕府の意向を受けた満直は南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行うことで自己の勢力基盤を固めようとするが、未だに南奥諸氏の糾合すらできておらず鎌倉を攻める意思があったとしても、実際にそれを行うことは困難であり、それが幕府と満直の間で微妙な齟齬として現れるようになる。
 正長2年(1429年)、鎌倉府に近い石川氏が白河結城氏や那須氏と抗争を起こして持氏がこれを支援すると、満直は幕府に対して持氏討伐のための兵を送ることや下総結城氏・小山氏・千葉氏に対して篠川公方に従うように命じる御内書の発給を要請した。6代将軍に就任した足利義教はこれに応じる意向を示して山名時熙や赤松満祐もこれに同調するが、「黒衣の宰相」と呼ばれた満済はまず満直自身が出陣するのが筋ではないかとして安易な出兵に反対し、畠山満家や斯波義淳,細川持之らも満済に同調した。その結果、同年9月には御内書が出されたものの、満直は出陣せず、満済や諸大名は満直の力を疑問視し始めて幕府と鎌倉府の和解を進める方針を採ることになる。当然、満直はこうした幕府内部の動きに反対し、義教も持氏と和解を拒否する態度を示したが、諸大名の反対にあったため、永享3年(1431年)7月に幕府と鎌倉府の和解が成立して、持氏は赦免されることになった。この一連の動きの結果、満直の持氏の対抗馬としての立場に疑問が付されることになり、永享4年(1432年)には、満直が関東管領・上杉憲実と争っていた越後国紙屋荘の代官職が憲実の手に渡ることになった。
 永享10年(1438年)に発生した永享の乱で、満直には幕府より錦御旗が届けられ、幕府方として石橋氏,蘆名氏,田村氏らを率いて参陣している。持氏と満貞は鎌倉で自害した。永享の乱で持氏が自刃すると、義教は自分の息子を鎌倉公方として下向させることを画策する。それには反対し、下総結城氏の結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児を擁立して永享12年(1440年)3月、結城合戦が勃発した。乱は嘉吉元年(1441年)4月に鎮圧されるが、乱の最中の永享12年6月24日、下総結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起して篠川御所を襲撃、満直は自害に追い込まれた。これにより鎌倉府の奥羽統制は失敗に終わり、東北地方は国人達の争いの場となっていった。

 父と同じく元服時に第3代将軍・足利義満の偏諱を授かり満兼と名乗る。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており、応永6年(1399年)10月に大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では義弘に呼応。さらに自身も義弘に加勢するため鎌倉を発ち、武蔵府中まで進軍するが、関東管領の上杉憲定に諫止され、12月に義弘の敗死を聞き、翌年の3月5日に鎌倉に引き返した。6月15日、伊豆の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている。
 応永6年(1399年)春には陸奥,出羽が鎌倉府の管轄となったため、弟である満直を篠川御所、満貞を稲村御所として下す。しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い、応永9年(1402年)には室町幕府と結んでいた伊達政宗の反乱が起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させている。この頃、京都では満兼が狂気したという噂が流れ、義満は満兼の調伏を行うなど、再び両者の確執が起こりだしていたようである。
 応永14年(1407年)8月29日に鎌倉御所が炎上したが、まもなく再建した。応永16年7月22日に死去、享年32。長男の持氏が跡を継いだ。


足利持氏 足利持仲

 応永16年(1409年)月の父・満兼の死去によって9月に鎌倉公方となる。翌応永17年(1410年)8月、叔父である足利満隆が持氏に対して謀反を企てているとの風説が立ち、持氏が関東管領であった上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が発生するが、憲定の仲介により持氏の異母弟の乙若丸を満隆の養子とすることで和睦・落着した(騒動は反憲定の勢力が満隆と結んだために発生したものであったため、その煽りを受けて憲定は翌年に関東管領を辞任している)。
 持氏は公方となったものの若年であり、新たに関東管領となった上杉氏憲(後の禅秀)の補佐を受けていた。北日本の奥羽地方は鎌倉府の管轄で持氏の2人の叔父である篠川公方の足利満直と稲村公方の足利満貞が治めていたが、応永20年(1413年)に伊達持宗が両者に逆らい反乱を起こしたため、持氏は奥州国人衆に召集を呼びかけ反乱を鎮圧した。
 しかし、持氏は禅秀を疎んじるようになり、禅秀は満隆・持仲と結んでいたため、両者の間の対立が次第に激しくなった。応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞し、持氏は上杉憲基(憲定の子)を後任として就任させた。
 応永23年(1416年)、遂に禅秀・満隆はクーデターを起こし、持氏・憲基は一時鎌倉を追われて駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかし、この反乱は、翌年に幕命を受けた越後の上杉房方,駿河の今川範政らによって鎮圧され、禅秀・満隆・持仲は自害、持氏らは鎌倉に復帰した。
 ところが、さらに翌年の応永25年(1418年)には関東管領の憲基が急死し、幼少であった憲実が後任に就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する施行状を作成することができず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が応永31年(1424年)まで続いている。
 京都の将軍と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていた。この時は関東管領・上杉憲春の諫死で対立は未然に防がれたが、関東に支配権を延ばそうとする将軍と、それに抗する鎌倉公方の衝突は宿命的なものであった。
 応永30年(1423年)に京都扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱,桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図った。これに対して室町幕府4代将軍・足利義持は持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。
 応永32年(1425年)、5代将軍であった足利義量が病死し、正長元年(1428年)に前将軍であった義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から6代将軍の座を望んだ。しかし、管領の畠山満家や三宝院門跡満済らの協議によって、6代将軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになり、この結果、天台座主義円が還俗して足利義教として将軍職を継承することとなった。
 この将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじ、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。
 関東管領・上杉憲実は持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏はこれに応じずに逆に憲実を遠ざけ、上杉氏庶流の上杉憲直や一色直兼,簗田満助ら近臣を重用し、やがて憲実が持氏に討たれるという噂が流れるまでになる。永享9年(1437年)には憲実は施行状の発給を止め、間もなく関東管領を辞職している(これ以降、関東管領の施行状の発給は途絶する)。一方、幕府においても義教と度々対立していた斯波義淳が永享4年(1432年)に管領を辞し、また宥和派であった畠山満家が翌永享5年(1433年)に、満済が永享7年(1435年)に没すると、義教を止めることのできる人間は存在しなくなった。
 永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子・賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。なお、『喜連川判鑑』では元服式はわざわざ源義家の先例を調べて行われたもので、憲実はこの命名に反対したが無視されたとする。持氏は義久を源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させて、鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げた。憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。
 将軍・義教は憲実の救援のため、篠川公方・足利満直や駿河守護・今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子・上杉持房,教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高らの武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。
 持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後、鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。義久と稲村公方・足利満貞も自害した。
 持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、永享12年(1440年)3月に彼の遺児である春王丸・安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。この反乱も幕府に鎮圧され、結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こし北関東へ逃れ、古河公方を称することになる。  

 満兼が身分が低い女性に産ませた子で、当初は上野国で秘かに育てられていたが、応永7年(1400年)に満兼が正式に実子と認めて鎌倉に呼び寄せたという。
 1409年(応永16年)、父・満兼の死に伴い、その嫡子であった異母兄の幸王丸(のちの足利持氏)が第4代鎌倉公方となるが、翌応永17年(1410年)8月、叔父である足利満隆が持氏に対して謀反を企てているとの風説が立ち、持氏が関東管領であった上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が発生する。その後、憲定の仲介により持氏の異母弟である乙若丸(持仲)を満隆の養子とすることで和睦・落着した。同年12月、兄・幸王丸(持氏)と同時に元服が行われ、将軍・足利義持より偏諱を与えられて持仲と称した。
 応永23年(1416年)、上杉禅秀に擁せられ、養父・満隆と共に持氏に反乱し(上杉禅秀の乱)、持氏を追放して一時的に鎌倉を配下に収めるが、室町幕府の後援による持氏の攻撃に遭い、鶴岡八幡宮雪ノ下の坊で自殺した。


足利春王丸 足利成氏

 父の持氏が室町幕府将軍・足利義教に反抗した末に、永享11年(1439年)に自害に追い込まれると(永享の乱)、弟の安王丸とともに下野国日光山に潜伏する。後に密かに結城氏朝に居城の結城城に匿われ、義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する氏朝に擁立され籠城するが、上杉持房を総大将とする幕府軍により落城(結城合戦)。安王丸とともに長尾因幡守に捕らえられ、京都護送中に義教の命令により弟とともに美濃国垂井宿の金蓮寺にて殺害される。享年12。


 永享12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸,春王丸,成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年(1447年)3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年(1449年)に元服。
 永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年(1441年)に将軍・足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始され、文安6年または宝徳元年(1449年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。
 新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族らと、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領・畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した。
 享徳元年(1452年)、室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わると、勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。
 享徳3年(1454年)12月27日に、成氏は関東管領・上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では父を死に追いやった上杉氏への恨みとみなされたが、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。
 翌享徳4年(1455年)正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した。正月21日・22日の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋,扇谷上杉顕房を討った。3月3日には、成氏は下総古河に到着し、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢は常陸小栗城に立て籠もるが、閏4月に小栗城も陥落する。山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命・只木山に布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護・今川範忠も上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち、6月16日には鎌倉を制圧した。
 その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたため、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)10月には修復が終わった古河城に移った。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる。成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、京都での「康正」「長禄」への改元に対しては、成氏は「享徳」を使用し続け、幕府に抵抗する意思を示している。
 上杉勢は、康正元年12月に下野天命・只木山の陣が崩壊し、康正2年(1456年)9月の武蔵岡部原合戦でも敗退したが、長禄3年(1459年)頃に五十子陣を整備し、さらに河越城,岩付城,江戸城などの攻守網を完成させた。
 一方、成氏も古河城を中心として、直臣の簗田氏を関宿城、野田氏を栗橋城、一色氏を幸手城、佐々木氏を菖蒲城に置くなど攻守網を形成し、両者が拮抗するようになった。
 長禄2年(1458年)、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍・義政の異母兄・政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたため「堀越公方」と呼ばれる。以後、おもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵北部の太田荘周辺と、上野東部が主な戦場であった。
 この間、幕府側の統制はあまりうまくはとれておらず、やがて、京都では度重なるお家騒動を発端として諸大名が2派に分かれて戦い、応仁の乱が勃発、幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまう。
 文明10年(1478年)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守護・上杉房定が幕府管領・細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日(1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体」と呼ぶ。この結果、堀越公方・足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。
 都鄙合体の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。長享3年(1489年)の文書に政氏の証判が見られることから、この頃には家督を譲っていたとも考えられている。
 明応6年(1497年)9月30日、死去。64歳であったとされる。臨終の際には嫡子の政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる。  

足利政氏 足利高基

 延徳元年(1489年)、父・成氏から家督を譲られ、古河公方を継承する。父と同様に足利義政より偏諱を受け、政氏と名乗る。
 長享の乱においては、扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した。明応5年(1496年)の武蔵柏原合戦では山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦う。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いでは伊勢盛時(北条早雲),今川氏親とも戦っている。
 永正2年(1505年)の両上杉氏和解後は、弟の顕実を上杉顕定の養子に入れた。永正3年(1506年)、嫡子・高基と対立、一時は和解したが、永正7年(1510年)の顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立、さらに次男・義明とも対立し、小弓御所として独立されてしまう(永正の乱)。簗田氏(簗田高助ほか)や宇都宮氏に支持された高基との争いに敗れ、古河城を失い小山氏の下に落ち延びる。
 高基と不利な形で和睦することを余儀なくされ、公方の位を譲り、出家して道長と号し、小山氏の庇護も受けられなくなり上杉朝良を頼って武蔵久喜の館に引退した。政氏はこの館に永安山甘棠院を開山。永正17年(1520年)には古河城を訪れ、高基と面会している。享禄4年(1531年)、久喜で没した。
 政氏は太田道灌謀殺後の両上杉氏の対立に際し、父・成氏の路線を引き継ぐことにより、関東における武家の棟梁たる地位の維持に努めようとしたが、その路線が裏目に出て、自身が息子達と対立する事態に陥ってしまった。そして、その間に後に古河公方家を没落させることになる後北条氏が関東に着々と進出してくる。  

 明応4年(1495年)に元服して、室町幕府第11代将軍・足利義高(後の義澄)の偏諱を受けて高氏と名乗るが、初代将軍・足利尊氏の初名と被ってしまうため、後に初代鎌倉公方・足利基氏(尊氏の子)の一字により高基または義基と改名した。
 上杉氏の方針などをめぐって、父と叔父の上杉顕実と不和になって対立した(永正の乱)。一時、宇都宮氏の宇都宮成綱のもとに身を寄せたこともある。この高基と政氏の争いのさなかに、高基の弟・足利義明は謀反を起こして独立し小弓公方となる。
 その後、古河公方擁立を企む岳父・宇都宮成綱を中心とした高基方(宇都宮成綱,結城政朝,小田政治など)の支援によって、永正9年(1512年)に古河公方として跡を継ぎ、扇谷上杉家や山内上杉家と対抗して勢力拡大に奔走した。
 永正13年(1516年)の縄釣の戦いで宇都宮成綱が政氏方の佐竹義舜を破ったことによって名実ともに古河公方となった。後に山内上杉家とは和解して次男の晴直(上杉憲寛)を同家の養子としている。晩年には嫡男の晴氏とも対立している(関東享禄の内乱)。


足利晴氏 足利義氏

 将軍足利義晴から偏諱を受けて晴氏を名乗る。享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立する。
 天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼした。『伊佐早文書』によれば、晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという。
 しかし氏綱の死後、跡を継いだ北条氏康と敵対し、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んで、天文15年(1546年)にともに北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失ってしまう。そして命は助けられたものの、天文21年(1552年)に公方の座を子の義氏に譲ることを余儀なくされた上で、天文23年(1554年)には古河城を攻められ、氏康によって相模国波多野に幽閉された。
 弘治3年(1557年)7月、古河城復帰を許されたが、9月には氏康によって廃された嫡男・藤氏の義氏打倒の陰謀が発覚した。晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた。のちの永禄3年(1560年)5月27日、元栗橋の「嶋」にて死去した。享年53。 

 幼名は梅千代王丸。父が北条氏康と河越城の戦いで、敵として戦って敗れて幽閉されると、北条氏からの強い意向で古河公方となったが、天文24年(1554年)11月の元服は、古河御所ではなく北条氏の一支城であった葛西城で行われた。このとき室町将軍である足利義輝から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け義氏と名乗り、仮冠役は外伯父にあたる氏康が務めた。
 永禄元年(1558年)4月に義氏は葛西城を出て、古河公方としては唯一になる鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、8月には公方領国入りを果たすものの、その居城も代々の古河城でなく関宿城とされた。これらの身上は全て、北条氏の政略に基づく。
 また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原など古河と関係ない地を転々とすることになった。
 元亀元年(1570年)頃、越相同盟の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子・北条氏照を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。この頃に浄光院と婚姻したと推測されている。
 天正11年(1583年)1月21日、死去。享年43。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立した。名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。

足利氏姫

 天正11年(1583年)に父が死去すると、弟の梅千代王丸は既に死去していたため、9歳にして古河公方家の家督を事実上相続した。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって戦国大名としての後北条氏が滅亡すると、後北条氏の実質的な傀儡だった古河公方としての氏姫は古河城の立ち退きを命じられ、鴻巣御所に入った。翌天正19年(1591年)、秀吉の命により祖父の代より敵対していた小弓公方・足利義明の孫・足利国朝と結婚させられた。これにより、義明が自立した永正年間以来80年ぶりに関東の足利両家は統一されることになった。秀吉はこの時、国朝に喜連川領400貫を与え、国朝はすぐに喜連川に入ったものの氏姫は古河公方嫡流の意地を通して鴻巣御所に住み続けた。
 文禄2年(1593年)に国朝が文禄の役に出陣する途中安芸国で病死したため、その弟である足利頼氏と再婚。この頼氏との間に義親と1女が誕生している。その義親が生まれた直後に起こった関ヶ原の戦いに頼氏は参陣しなかったが、直後に家康のもとに戦勝祝賀使を遣わしたことが評価され、翌年、頼氏には1000石を加増の上、喜連川4500石が安堵された。これにより喜連川藩が事実上立藩したが、その後も氏姫は相変わらず鴻巣御所に住み続けている。
 元和6年(1620年)5月に46歳で死去した。鴻巣御所近くの芳春院に葬られ、同寺は氏姫の院号にちなんで徳源院と改められた。氏姫の死後も義親は寛永6年(1629年)に死去するまで鴻巣御所に住み続け、さらに孫に当たる尊信も寛永7年(1630年)に祖父・頼氏の病死により喜連川藩を継承するまで鴻巣御所に住み続けていた。
 尊信が喜連川に移った後、鴻巣御所周辺の領地300石余は幕府に収公されて公儀御料となった後、古河藩領となった。