父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。 治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝のもとにいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動していたと考えられる。そのためか甲斐源氏である武田とは関わりがあり、多くの戦を共にする。 寿永2年(1183年)2月、常陸の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて『吾妻鏡』で確認されるが、小山氏の活躍により勝敗は決しており、残党狩りに近い状態だと思われる。 寿永3年(1184年)1月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。尾張墨俣渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、怒りを買っている。1月20日、範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。義経の独断による強襲とも言われているが、範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしていることから、戦上手の今井兼平率いる500余騎を範頼軍に引きつけるための作戦だったと思われる。また範頼軍も強襲をすると、進軍の大義名分である義仲が西方面に逃亡してしまう危険性があり、なにより京都には3万の兵士をまかなえるだけの食糧もなかった。義経の京都強襲が成功すると義仲は今井兼平と合流し、北陸に逃亡をはかるが、事前に察知していた範頼軍は展開していた兵士で追跡し、武田軍により義仲を討伐する。 寿永3年(1184年)2月5日に始まった一ノ谷の戦いでは、源範頼は大手軍を率いて進軍し(宇治川の戦いで率いた3万の兵士を基幹としたと思われる)、また源義経は1万の搦手軍を率いて進軍した。両軍の兵力差からみて、すでに敵主力を範頼軍に引き付ける作戦は決定していたと思われる。福原を本営に強固な防御陣を築いて待ち受ける平氏に対し、範頼軍は東側から正面攻撃を行い、生田の森において激戦が展開された。この間に西側に回り込んだ義経軍による奇襲によって戦いは7日に終結し、平氏を海上に追いやって大勝する。義経の評価はいっそう高まった。 3月、範頼は上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。 6月、範頼は戦功により三河守に任じられる。この守は名義上のものではなく建久4(1193年)8月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。現在も三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる。 8月、範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられたことから、遠征の重要性が理解できる。また九州進軍は平氏討伐ではなく、頼朝と対立し平氏を援助する西国御家人を鎮圧し、平氏を瀬戸内方面に孤立させることである。参加した武将は北条義時,足利義兼,千葉常胤,三浦義澄,小山朝光,仁田忠常,比企能員,和田義盛,土佐坊昌俊,天野遠景など頼朝軍の主力武士団を揃えた。 備前国藤戸の戦いにて佐々木盛綱の活躍で平行盛軍に辛勝し、長門国まで至るが瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられていることもあって、遠征軍は兵糧不足などにより進軍が停滞した。このことから、範頼の戦での能力は低いといわれるが、実際は頼朝が、範頼軍の食糧問題を解決する前に出発させたことが原因であるとされる。その理由として3万もの軍勢を京に長く滞在させることで、食糧や治安に問題がおきることを避けたためといわれる。範頼は長門周防から、11,12月にかけて兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。それに対して頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれないこと、安徳天皇,二位尼,神器を無事に迎えること、関東武士たちを大切にすることなど、細心の注意を書いた返書を送っている。特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っている。 文治元年(1185年)1月26日、豊後国豪族・緒方惟栄の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に鎌倉へ帰ろうとする関東武士たちを強引に押しとどめて周防国より豊後国に渡ることに成功。九州の平氏家人である原田種直を2月に葦屋浦の戦いで打ち破り、長門国彦島に最後の拠点を置く平氏の背後を遮断する。これにより実質、平氏の戦力は壊滅したのと同じであり、平氏は援助も隠れる場所すらも失った。この範頼軍の動きのため、平氏の中心人物・平知盛は長門に留まらざるを得ず、屋島の戦いに参加できなかった。同年2月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の戦いで勝利する。範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、四国担当の義経が引き入れた熊野水軍の湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている。 3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。 壇ノ浦合戦後、範頼は頼朝の命により、九州に残って神剣の捜索と平氏の残存勢力や領地の処分など、戦後処理にあたる。5月の頼朝からの伝令では、従っている御家人達に問題があっても、自分で勝手に判断して処罰せず、頼朝を通すように注意がきている。その頃鎌倉では、平氏追討の道中、頼朝の意に背かず何事も千葉常胤や奉行として付けられた和田義盛に相談した範頼に対し、言いつけを守らず独自に行動する義経の専横や越権行為が頼朝の怒りを買っており、範頼が九州の行政に当たっている間に、頼朝と義経は対立する。 範頼は9月に頼朝に帰還の手紙を出し、海が荒れたため到着が遅れる旨を報告している。この範頼のこまめな報告ぶりも、頼朝に忠実であるとして評価され、逆に義経の独断専行ぶりを際だたせたという。10月、鎌倉へ帰還した範頼は、父・義朝の供養のための勝長寿院落慶供養で源氏一門の列に並び出席している。 義経は頼朝追討の挙兵に失敗し、同年11月に都を追ちた。その際、養父・藤原範季の実子で範頼と親しかった範資は、範頼から兵を借りて義経追討に加わっている(河尻の戦い)。養父・範季は潜伏中の義経を匿ったことで頼朝の要請により解官されている。義経は奥州へ逃げ延びたのち、文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡による討伐軍の襲撃を受け、自害した。 文治5年(1189年)7月、頼朝自ら出陣し、奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦においては、頼朝の中軍に従い出征。多くの源平合戦に参加した範頼だが、これが最後の参戦となった。 建久元年(1190年)6月28日、都の院庁官・中原康貞が、範頼を通じて院伝奏・藤原定長と、関東申次・吉田経房を訴えたことに対し、頼朝は訴えをまったく聞き入れず、両者ともに公武での務めをよく果たしている良臣であり、このことは口外しないよう範頼に言い含めた。康貞の讒訴の意図は不明だが、範頼が中原康貞の仲介を行ったのは、康貞の弟・中原重能が範頼の家政機関の運営を行う吏僚であったためと考えられる。頼朝挙兵に参じた頃の私的郎党はわずかなものであったと思われるが、追討の実績、三河守補任や所領の獲得などによって私的な主従関係を結んだ武士の数も増えていったと見られる。また範頼と京との結びつきの強さから、直属武力なる武士たちには朝廷の武官職を持つ者も多かった。養父・藤原範季は九条兼実の家司であり、西国遠征の際には養父との接触にも慎重だった範頼が公家の争いに関わったのは、何らかの事情があったものと考えられる。 建久4年(1193年)5月28日、曽我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる(ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が2ヶ月も空いていることから、政子の虚言また陰謀であるとする説もある)。 8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗ったことを過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆に流した。 8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして、結城朝光,梶原景時父子,仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我祐成らの同母兄弟である原小次郎という人物が範頼の縁座として処刑されている。
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祖父・範頼は幕府で重要な役割を担っていたが、曽我兄弟の仇討ち事件での失言がきっかけで鎌倉殿・頼朝の怒りを買って流罪となり、その後、生死不明となった。安達盛長や比企尼が次男・範圓と3男・源昭の助命を嘆願して頼朝に認められ、範圓と源昭は出家した。その後、範圓は吉見庄を分与されるが、その息子である為頼は御家人となって吉見庄を継承し、吉見氏の祖となった。 |