清和源氏

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高木正次 高木正成

 永禄6年(1563年)、尾張緒川にて生まれる。天正10年(1582年)より徳川氏に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣して武功を挙げた。朝鮮出兵にも参陣している。文禄3年(1594年)、家督を継いで5000石を領する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信濃上田城の真田昌幸と戦い、その功績により慶長7年(1602年)に2000石を加増された。
 慶長12年(1607年)に大番頭に任じられる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では江戸城の守備を努め、翌年の大坂夏の陣では大坂に出陣して戦功を挙げた。これにより元和3年(1617年)、近江にて2000石を加増された。元和9年(1623年)には大坂定番となって1000石を加増され、領地も河内丹南に移されて、合計1万石の大名として諸侯に列し、初代の丹南藩主となった。寛永7年(1630年)11月晦日、68歳で死去し、跡を長男の正成が継いだ。

 初代藩主・高木正次の長男として近江国にて誕生した。母は大久保忠佐の養女。幼名は善次郎。
 慶長3年(1598年)より徳川家に仕え、慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では父と共に真田昌幸を攻めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍して戦功を挙げ、上総国内に1000石を与えられた。翌年の大坂夏の陣においても天王寺口で戦い、戦傷を負いながらも武功を挙げたため、さらに1000石を加増された。寛永7年(1630年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、先の2000石を長男の正弘と次男の正好に分与している。
 小田原城守衛や御書院番頭などを務めたことから上総国内に3000石を加増され、後に大番頭にもなった。寛永12年(1635年)3月11日、49歳で死去し、跡を長男の正弘が継いだ。

高木正陳 高木正弼

 4代藩主・高木正盛の次男として誕生した。天和元年(1681年)7月11日、先代藩主で兄の高木正豊が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。同年7月22日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。
 元禄元年(1688年)には叡福寺の上の御堂,二天門,回廊,鐘楼を建立している。
 元禄2年(1689年)5月14日、大番頭に就任する。同年12月27日、従五位下・主水正に叙任する。元禄12年(1699年)2月2日、河内国丹南郡内の領地の一部を下野国足利郡内に移される。正徳元年(1711年)1月11日、奏者番に就任する。元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。享年77。跡を養嗣子の正恒が継いだ。
 茶人であり、一尾伊織の門人の一人であった。

 7代藩主・高木正恒の長男として誕生した。幼名は熊次郎、主水。寛保3年(1743年)7月25日、正恒の死去により、家督を相続する。宝暦7年(1757年)3月1日、9代将軍・徳川家重に御目見する。同年12月18日、従五位下・主水正に叙任する。宝暦8年(1758年)10月21日、河内国丹南郡の領地の一部を丹北郡,志紀郡に移される。明和元年(1764年)9月15日、大番頭に就任する。
 明和6年(1769年)に領内の丹南郡・丹北郡・志紀郡が不作にみまわれ、農民が拝借金や配給米を求めたが、江戸住まいの正弼はこれを認めなかった。そして、全村の庄屋22名と農民たちが年貢納入を拒絶し、騒動に発展した(郷中騒動)。安永元年(1772年)11月21日、幕府は農民騒動の対応を咎め、出仕を止めている。
 安永9年(1780年)9月27日、40歳で死去し、跡を婿養子の正直が継いだ。

高木正得 高木正征

 旧河内丹南藩の最後の藩主高木正善の子として生まれる。東京帝国大学理学部動物学科を経て東京帝国大学大学院修了。昆虫学,寄生虫学を専攻。1920年2月に襲爵。
 貴族院議員や司法参与官を歴任。公務の傍ら、チョウやカミキリムシを研究。昭和初期には、秋田県の官民共有林の払い下げを巡って詐欺的行為を働き、告訴を辛うじて免れて名古屋市に移住したといわれる。名古屋では生活に窮し、風船売りで生計を立てたこともある。
 戦後は東京都渋谷区の関東女子高等学校(現在の関東国際高等学校)に奉職。しかし、1948年7月8日、「呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ」との遺書を残し、昆虫採集用の青酸カリを持ち出して失踪、大騒ぎになった。貴重な研究資料だった蔵書や昆虫標本類を戦災でことごとく焼失した上、それらを集め直すことが華族制度廃止で不可能になった悲しみと絶望が失踪の理由だったのではないかと邦子夫人は推測した。
 1948年11月1日、奥多摩の雲取山中にて白骨死体となって発見された。縊死と考えられている。奥多摩は、かつて足繁く昆虫採集に通った思い出の地だった。

 丹南藩藩主の分家筋に当たる高木正秋(高木正得の弟)を父として、東京府東京市赤坂区青山高樹町で生まれる。「高樹町」の町名は、丹南藩邸があったことに由来し、高木の生家も1000坪の敷地に80坪の邸を構えていた。
 暁星中学校時代に陸上競技を本格的に始め、旧制高等学校や大学からの中学校招待レースでいくつも優勝を飾る。1922年4月23日の第3回東西対抗関東予選で、日本では初めてとなる11秒0の日本新記録を樹立した。さらに1923年5月の第6回極東選手権競技大会(大阪市)100ヤード決勝では、日本人トップとなる2位に入賞する。この大会では220ヤードでも2位に入賞している。
 旧制山形高等学校陸上部キャプテンの鈴木武から勧誘され、それを受けた高木は、両親を説得して受験勉強に励み、旧制山形高校に合格する。進学して3か月後(1925年7月)の全国高等学校大会では再び自己ベストタイの11秒0で優勝した。
 高木らが持っていた11秒0の日本記録は、1925年11月に谷三三五が10秒8を出して破り、日本人として初めて10秒台に突入した。高木も2年後の1927年7月29日の全国高等学校大会で10秒8の日本タイ記録を出す。この大会で高木は200メートルでも21秒9の日本新記録を樹立した。
 その後、陸上競技を離れ、旧制山形高等学校から京都帝国大学法学部に進学。京都帝大2年の時に、陸上部のキャプテンを務めていた短距離走の木村潔からの依頼で、東京帝国大学との対抗戦の100メートルに出場し、11秒2で2位となったのを最後に完全に陸上競技と決別した。
 大学卒業後は1932年に三井生命保険に入社し、日中戦争から太平洋戦争にかけての軍務を挟んで、支店長や支社長を務め、1959年から1969年までは本社の監査役となった。三井生命保険を退職後は、リッカーミシンの顧問も務めた。