| G109:源 頼綱 | 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 国房 | G131:源 国房 |


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| 源 国房 | 源 光国 |
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美濃源氏の祖。一説には、五兄・頼綱の養子となっていたともされる。 |
寛治元年(1087年)に左兵衛尉から右衛門少尉となり、同5年(1092年)には白河院の鞍馬寺参詣に供奉している。検非違使となっていた嘉保元年(1094年)には、京で火災が起こり、光国の郎党が前天台座主・良真の西京の邸宅に押し入り強盗を働く。 |
| 土岐光信 | 土岐光長 |
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鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。白河・鳥羽両院に仕えて、北面武士や検非違使を務めた。大治4年(1129年)正月、前年に武者所を殺害したとして右獄に収監されていた郎党が赦免された際、この郎党の帰属を主張した源為義と争論となり、互いに兵を挙げてこれの奪取を図ったことから合戦に発展しかけた。白河院崩御後の同年11月に南都で仏師長円襲撃事件が起こると真っ先に興福寺内を捜索した。 |
美濃源氏の豪族・土岐氏の惣領となり、平氏政権下においても源氏の流れを汲む在京の武者として検非違使,左衛門尉を務めた。治承4年(1180年)5月、以仁王による挙兵の企てが露見し間もなく王に配流の命が下されると、源兼綱と共に検非違使庁の兵を率いて三条高倉邸に追捕に向かった。 |
| 土岐光経 | 長沢光国 |
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美濃源氏・土岐氏の棟梁であった父と共に在京し、検非違使・左衛門尉を務めたとされるが、寿永2年(1184年)の法住寺合戦で父が後白河院方に加わったため光経もこれに従い、死闘の末に父と共に討ち取られ梟首された。 |
越中国人で後に上杉氏の家臣となる。長沢氏は、鎌倉時代に越中に土着した清和源氏土岐氏の一族。婦負郡長沢を苗字の地とし南北朝期には桃井直常に従った。戦国期には、氷見地方南部を勢力圏としていた。天正年間に至り上杉謙信の勢力が越中西部に及んでくると、これに臣従して能越国境の要衝湯山城(森寺城)を守備した。上杉軍の能登平定後、同国穴水城将となり、その後、畠山旧臣の一揆鎮圧に活躍した。天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、織田信長の命で能登に侵攻してきた長連龍を撃退するも、温井景隆,三宅長盛らが離反し、光国は彼らと戦い、石動山で子・七次郎と共に討死した。 |
| 源 光保 | |
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大治5年(1130年)、闘乱事件の罪により兄・光信の土佐国への配流が決定すると、光保もこれに連座して右兵衛尉の任を解かれたが間もなく還任される。その後、兄に代わり鳥羽法皇の北面武士を務めた際、娘(土佐局)が法皇の寵妃となったことを契機としてその近臣となり、仁平元年(1151年)の院昇殿を皮切りに、久寿元年(1154年)には従四位下・出雲守となり、さらに保元元年(1156年)には正四位下に叙されるなど異例の早さで昇進した。 |