F861:赤塚景頼 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 斎藤則光 ― 赤塚宗景 ― 赤塚宗長 ― 赤塚景頼 ― 斎藤経永 | F862:斎藤経永 |
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斎藤経永 | 斎藤利明 |
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美濃の斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流・河合系斎藤の赤塚氏が美濃目代として越前から移り住んだのに始まるといわれる。 |
宗円は入道名。文安元年(1444年)閏6月19日、京都の土岐屋形において土岐氏の守護代である富島氏を殺害する。この時、逃亡に成功した富島八郎左衛門は、土岐氏被官3名を捕らえて殺害、守護代邸に放火した後、管領・畠山持国に事の次第を訴えたが、相手にしてもらえなかったため、一族郎党挙げて美濃に下国、7月10日、垂井で土岐軍と戦い勝利する。更に8月6日,10日の両日、斎藤氏の館に攻め寄せたが、守護・土岐持益及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となった。この後、富島氏に替わり美濃守護代となる。 |
斎藤利永 | 斎藤利藤 |
文安元年(1444年)閏6月19日、父が守護代富島氏を殺害したことに始まる美濃の合戦に参加、翌文安2年(1445年)8月、美濃における斎藤氏の拠点として加納城を築城したという。守護代就任以前は在京することが多く、和歌をよくし、禅宗にも深く帰依したという。宝徳2年(1450年)9月、父が暗殺されると、暗殺の首謀者である富島氏,長江氏と戦い討ち滅ぼし、まもなく守護代となる。
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父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮うことは出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂に合戦を始める(美濃文明の乱)。利藤は墨俣城を拠点にして戦うが、同年11月には敗れて近江の六角氏の元に亡命、更に京都へ赴き幕府の庇護を受けた。長享元年(1487)5月、守護・土岐成頼と妙純との和議が成立し、美濃守護代職に返り咲く。 |
斎藤利為 | 斎藤利茂 |
土岐氏の三奉行職を務める家柄の出身で、土岐成頼,土岐政房に仕えた。船田合戦では政房,斎藤利国(妙純)に味方し、合戦後に敗れて隠居を余儀なくされた守護代・斎藤利藤の養子となり、墨俣城主となる。後に墨俣の明台寺に義父のため供養塔を建てている。
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斎藤妙純または斎藤利為の子。通称は帯刀左衛門尉と称す。斎藤又四郎とは同一人物とも。 |
日運 | 斎藤利安 |
明応4年(1495年)、父・斎藤利藤は斎藤妙純に敗れて既に実権を失っていた。しかし、美濃国守護の土岐成頼が嫡男の土岐政房より末子の土岐元頼を溺愛したため、斎藤妙純の重臣である石丸利光は土岐元頼と斎藤利藤の嫡孫・利春を擁立し斎藤妙純に対し反乱を起こした。しかし利春は対陣中に病により早世したため、利藤の末子である毘沙童が代わりに擁立されることとなった。 |
延徳2年(1490年)、白樫城を築き、初めここに居住する。土岐成頼の後継をめぐる家督争いでは、明応4年(1495年)7月、妙純から土岐元頼方の古田氏討伐を命じられ、利綱とともに出陣した(船田合戦)。 |
長井利隆 | 長井長弘 |
文明10年~明応5年(1478~96年)頃、竹ヶ鼻城主だったが、万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』によると、守護代・斎藤利親が戦死したことにより、その跡を継いだ利親の子・利良が幼少のため、長井藤左衛門尉長弘とともに補佐した。『美濃明細記』によると、土岐政房,土岐政頼,土岐頼芸の執権であったという。明応6年(1497年)、利良後見のため、竹ヶ鼻城から加納城に移ったといわれる。永正13年(1516年)2月、京都妙覚寺の日善上人の法弟であった弟ともいわれる日護房(南陽房)を美濃に招き、美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職とした。土岐政房の後継を巡る家督争いでは土岐頼芸方に付いた。その後、頼芸が川手城から大桑城に拠点を移したことにともない、川手城に城代として置かれた。永正12年(1515年)に死去。享年71または天正2年(1530年)に死去。墓所は汾陽寺。 |
諱は利道・政利,長広,長張とも。父は長井秀弘または長井利隆とも。美濃小守護代。美濃関城主。一説には長井斎藤利安と同一人物とも。 |
井上道勝 | 井上頼次 |
美濃国不破郡今須城主で、初め、父または兄弟とされる長井道利とともに斎藤道三に仕え、弘治2年(1556年)、長良川の戦いでは道利とともに斎藤義龍側に付いた。『信長公記』によると、この戦いにおいて道勝は道三に組み付いて、義龍の前に引き据えるため生け捕りにしようとしたが、小牧源太(道家)の横槍が入り、この小牧が道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首を切った。これに激怒したが、最初に組み付いた証拠として道三の鼻を削いで懐に収めその場を退いた。同年、道三方に組した明智光安の居城明智城を道利とともに攻める。 |
初めは、斎藤姓を名乗る。斎藤龍興が織田信長に滅ぼされると、井上姓に改めて信長に仕え、信長死後、豊臣秀吉・秀頼に仕えた。のち兄の道勝とともに黄母衣衆に加わる。慶長19年(1614年)、大坂の陣の鴫野の戦いで豊臣軍に属し、鉄砲隊長として2千の兵を率いて、鴫野の柵に徳川軍の備えとして置かれるが、徳川軍の猛攻に遭い、鴫野の柵崩壊によって討死した。 |
井上時利 | 斎藤利賢 |
初め織田信長に仕える。信長死後は豊臣秀吉に仕え、慶長4年(1599年)、美濃国と河内国の両国に760石を知行したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで織田秀信の西軍参加を受けてこれに従い、戦後、徳川家康から改易されて浪人する。慶長19年(1614年)大坂冬の陣で豊臣方に付き、幕府軍の備えで谷町口に置かれた。慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣で薄田兼相とともに大坂へ行き、徳川方の秋山右近を討ち取るが、幕府軍の猛攻に遭い討死した(道明寺の戦い)。享年50。のちに子の利中は罪を許され、幕府2代将軍・秀忠に仕えている。 |
父は斎藤利匡。軍記・史書・系図等では斎藤和泉守利胤(または長井斎藤利安)。室は前妻に足利義輝の重臣・蜷川親順の娘(蜷川親世の妹、後に離縁して石谷光政室)、後妻は明智光継(宗善)の娘。
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斎藤利綱 | |
連歌に優れ、作品が『新撰菟玖波集』に収められている。三条西実隆の日記『実隆公記』によれば『古今和歌集』『愚問賢注』の写本の奥書染筆を請うたり、十首歌を詠ずるなど文武両道の武将であった。故実にも通じ、『家中竹馬記』の作者であり、『土岐家聞書』の作者であるとも。 |