F862:斎藤経永 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 斎藤則光 ― 赤塚宗景 ― 赤塚宗長 ― 赤塚景頼 ― 斎藤経永 ― 斎藤妙椿 | F864:斎藤妙椿 | ● |
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斎藤妙椿 | 斎藤妙純(利国) |
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実名は不明。妙椿は法名で、善恵寺に持是院という子院を構えたため持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家と言う。従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。 |
応仁の乱では、文明5年(1473年)10月に伊勢長野氏救援のため、大将として伊勢に出兵、妙椿と共に東軍の梅戸城を落としている。文明12年(1480年)2月に妙椿が亡くなると持是院家を継承する。守護・土岐成頼に対して利国を重用するよう妙椿の遺言があったという。 |
斎藤彦四郎 | 斎藤利良 |
次兄の又四郎が明応8年(1499年)に没すると、持是院家5代目当主となる。永正3年(1506年)に11代将軍・足利義澄から出された御内書の宛先も「斎藤彦四郎とのへ」であり、美濃守護代になっていることがわかる。 |
父と祖父が明応5年(1497年)12月に近江で戦死した時は幼少のため、2人の叔父・又四郎,彦四郎が持是院家の当主を継いだ。 |
斎藤道三(利政) | 斎藤義龍 |
生年・生誕地については諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり山城乙訓郡西岡に住んでいたという。道三は11歳で京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。 |
大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斎藤利政(道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚,高政といった。 天文23年(1554年)道三が隠居したため、美濃守護代・斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となる。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。 |
斎藤龍興 | 斎藤孫四郎 |
天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わるが、生母が近江の方(近江局)という説が事実であるならば、義龍正室の子となり嫡子となる。近江の方は浅井久政の娘という説があるが、義龍と久政は年齢が1つしか違わないため、近江の方は久政の実子ではなく養女ということになる。よって近江の方は、久政の父・浅井亮政の娘であるというのが有力な説となっている。義龍と道三の父子関係を肯定するのであれば、斎藤道三の実の孫に当たる。 |
斎藤道三の2男として生まれる。『信長公記』によると父道三と兄弟の義龍,喜平次の親子4人で稲葉山城に住んでいたという。
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斎藤喜平次 | 斎藤利堯 |
斎藤道三の3男として生まれる。『信長公記』によると、道三と兄の義龍,孫四郎の親子4人で稲葉山城に住んでいたという。
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『寛政重修諸家譜』には斎藤道三の子、『勢州軍記』には稲葉一鉄の甥とあり、一鉄の姉妹が道三に嫁いでいることは『稲葉家譜』にも記されているので、どちらも正しいと見られる。 |
斎藤長龍(利治) | 斎藤義興 |
天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。長良川の戦い後、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は利治と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した。 |
美濃国加治田で生まれる。天正10年(1582年)6月2日、加治田城主である父の利治が本能寺の変で織田信長,信忠と共に討ち死にし、新たに城主となった利治の兄で織田信孝の家老の利堯も、信孝と対立した羽柴秀吉に付いた森長可との間で同年8月に加治田・兼山合戦を行った後、病死した。利堯が後継人を決めていなかったため、家臣の多くは森長可に仕え、加治田も長可の支配下となって城も廃城になった。そのため義興兄弟は、佐藤忠能から三代にわたり家老をつとめた長沼三徳によって、加治田の絹丸捨堀で養育され、元服後に織田秀信に仕えた。
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斎藤市郎左衛門 | 斎藤正義 |
加治田城主である父の利治が本能寺の変で主君・信忠を追って討死し、利治の兄・利堯も加治田・兼山合戦のしばらく後に病死して、加治田は森長可の領地となり城も廃城となったため、城下の絹丸捨堀に隠棲していた元家老の長沼三徳によって養われ、成人まで成長した。その後、岐阜城主・織田秀信に仕える。慶長5年8月23日、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦いにおいて、兄・義興,三徳と共に戦うが、三徳は戦死。義興は負傷し、関の梅龍寺で養生後、池田輝政に仕えた。市郎左衛門は北山へ逃れ、後に松平直基に仕えた。 |
関白・近衛稙家の庶子に生まれ、13歳の時、稙家に家臣の瀬田左京を付けられて、比叡山横川恵心院に出家させられる。武事を好み、美濃国可児郡瀬田村出身と言われる左京の姉が斎藤道三の愛妾となっていた縁で、道三を頼ってその養子となる。ただし、大納言を称したことと、美濃斉藤氏持是院家の斎藤妙椿の孫の妙親が大納言を名乗っていることを関連付けて、斉藤氏の持是院家を継承した、とする説もある。 |
斎藤帰蝶 | |
斎藤道三の3女。母は明智光継の娘・小見の方。当時、明智家は東美濃随一の名家であったため小見の方は正室として迎えられ、濃姫は正室唯一の子であったという。明智光秀とは従兄妹同士とされる。 |