<藤原氏>北家 利仁流

F862:斎藤経永  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 斎藤則光 ― 赤塚宗景 ― 赤塚宗長 ― 赤塚景頼 ― 斎藤経永 ― 斎藤妙椿 F864:斎藤妙椿

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斎藤妙椿 斎藤妙純(利国)

 実名は不明。妙椿は法名で、善恵寺に持是院という子院を構えたため持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家と言う。従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。
 幼少時から出家し善恵寺で修行した後、善恵寺に子院・持是院を構えた。宝徳2年(1450年)に妙覚寺から世尊院日範を招き、常在寺を建立。長い間、僧として持是院で生活を送っていたが、長禄4年(1460年)に兄・利永が亡くなると、甥である新守護代・斎藤利藤を後見するため加納城へ移り、ここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。美濃守護・土岐成頼の被官ではあるが、同時に足利将軍の直臣という立場に立とうとし、更に美濃周辺数ヶ国の支配をも目論んだ。後に室町幕府奉公衆となり、官位も土岐成頼の従五位下を超えて従三位権大僧都に昇っている。
 応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏,長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。その一方で多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代・多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月と文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破している。
 文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させ、さらに文明6年(1474年)6月、越前に赴いて朝倉孝景,甲斐敏光の両者を調定の末に和解させた。この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。
 京では厭戦気分が漲り、土岐成頼は文明9年(1477年)冬、足利義視・義材父子を連れて美濃に下国した。文明10年(1478年)に婿の織田敏広に加勢して尾張に出兵するなど、その兵力は周辺諸国にも行使され、書状にて飛騨の姉小路氏と三木氏の抗争を調定したり、6代将軍・足利義教の三十三回忌法要を美濃で営むなどをした。また応仁の乱後、主君の守護土岐成頼が足利義視・義材父子を美濃に伴ったのは妙椿の意向によるものだった 。
 文明11年(1479年)2月に可児郡明智で隠退し、翌文明12年(1480年)2月21日に腫れ物を患い死去。応仁2年に建立した瑞龍寺に葬られた。甥で養子である斎藤利国(妙純、利藤の異母弟)を重用するよう成頼に遺言したため、死後100日を経ずして利国と利藤の兄弟争いが勃発する。
 一条兼良や東常縁,宗祇,万里集九,専順ら一流の文化人とも親交があった。一条兼良は応仁の乱の最中の文明5年(1473年)、妙椿に招かれ美濃に下り、連歌百韻に参加している。また、美濃篠脇城主・東常縁は応仁の乱勃発時に遠く下総に居り、美濃の所領には兄である東氏数がいたが、富島氏と通じていると見なされ、妙椿の攻撃を受け逃亡、所領は妙椿に占領されてしまった。常縁はこれを悲しみ歌に詠んだところ、この歌が人伝に妙椿に伝わり、常縁が直接自分に歌を送ったならば所領を返還しようと言い、その後、2人の間で歌の応答があり、所領返還が決まったという。宗祇も応仁の乱中、しばしば美濃を訪れ連歌の会を催している。軍事・政治の両方に通じ、経済力を持っていた妙椿に対して、官人・壬生晴富は「無双の福貴、権威の者なり」、官人・大宮長興は「この者、一乱中種々張行」、『大乗寺社雑事記』によると「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」と評されている。

 応仁の乱では、文明5年(1473年)10月に伊勢長野氏救援のため、大将として伊勢に出兵、妙椿と共に東軍の梅戸城を落としている。文明12年(1480年)2月に妙椿が亡くなると持是院家を継承する。守護・土岐成頼に対して利国を重用するよう妙椿の遺言があったという。
 同年5月、応仁の乱で妙椿が横領した荘園の扱いをめぐり、斎藤氏惣領家当主で守護代の異母兄・利藤と争いとなり、8月には合戦を始める。土岐成頼が妙椿の遺言を重んじて利国を支援したために11月には勝敗がつき、敗れた利藤は近江の六角氏のもとに亡命、利国は重臣・石丸利光を近江に派遣し、利藤を追討した。その後、利藤は京都で室町幕府の庇護を受ける。
 文明13年(1481年)10月、妙純は越前の朝倉氏景に対し、斯波義廉の子・義俊を越前の名目的な主人として推戴することを提案、氏景もこれに同意し、斎藤氏と朝倉氏の連携が強化された。長享元年(1487年)5月、幕府の調停により成頼・妙純と利藤の間で和議が成立、利藤は美濃国守護代に返り咲くことができた。しかし、国内の政治の実権は妙純が握ったままであった。
 延徳3年(1491年)4月20日、妙純の娘(13歳)は氏景の子・朝倉貞景の元へ嫁ぎ、朝倉氏との連携は益々強固なものとなった。
 守護・土岐成頼は嫡男・政房よりも末子・元頼を愛し彼に家督を譲ろうと考え、政房・妙純を倒すため、守護代・利藤と結んだ。更に強い出世志向を持つ石丸利光が同僚の西尾直教と対立しているのを知ると、利光に斎藤姓を許した上で妙純から離反させてこれと手を結んだ。その結果、美濃とその周辺諸国を巻き込んだ船田合戦が勃発する。
 明応3年(1494年)12月、西尾直教による追い落としの策謀を知った利光は居城船田城に兵を集め、妙純を奇襲しようとしたが失敗、成頼に頼み込んで一旦妙純と和議を結んだ。一方、妙純も居城加納城の防備を固くし事態に備えた。
 明応4年(1495年)5月から6月にかけて、石丸利光は船田城へ斎藤利藤の孫・利春,末子・毘沙童、更に土岐元頼を次々と迎え入れた。妙純には尾張の織田寛広(寛広の養父敏広の妻は妙椿の養女)から援軍が駆け付けた。7月1日に合戦があり、石丸方が敗れ、形勢不利と見た利光は、7日に船田城に火をかけ近江へと逃れた。石丸方が敗れたことで責任を感じたのか、成頼は城田寺城に隠居、政房に家督と守護職を譲った。
 明応5年(1496年)5月、妙純が尾張の織田寛広支援のために出陣中に、利光は近江の六角高頼,尾張の織田寛村,伊勢の梅戸貞実らの援助を得て、4000の兵で伊勢・尾張を通り、成頼の居る城田寺城に入った。妙純方には近江の京極高清,尾張の織田寛広,越前の朝倉貞景の援軍が集まった。27日に合戦が始まるが、石丸方は劣勢で29日には城田寺城は包囲され、30日に利光は自害した。成頼は妙純が元頼を許さないため、城から出ようとしなかったが、政房が出向いて説得し6月16日に漸く城を出た。20日、城田寺城に火がかけられ元頼は自害した。利藤も間もなく隠居させられることとなった。
 同年8月、法印権大僧都となり、嫡男の利親に家督を譲った。同年9月、妙純は京極高清の求めに応じ、先に石丸方に味方した六角高頼を討伐するため、近江に出陣、緒戦で京極政経を打ち破る。しかし、六角方は蒲生貞秀,延暦寺や北畠政郷らの支援を受けた上に大きな合戦もなく戦線は膠着し、和議を結び美濃へ撤収することとなった。12月7日、撤収準備にかかったところ、突然、長期の侵攻に不満を蓄積していた郷民・馬借による土一揆が蜂起し、不意をつかれた美濃勢は具足太刀を奪われ、妙純以下1000余りが戦死、妙純の嫡男・利親らも戦死し、持是院家は大打撃を受けることとなった。
 孫の勝千代は幼少のため、次男の又四郎が後を継いだ。 

斎藤彦四郎 斎藤利良

 次兄の又四郎が明応8年(1499年)に没すると、持是院家5代目当主となる。永正3年(1506年)に11代将軍・足利義澄から出された御内書の宛先も「斎藤彦四郎とのへ」であり、美濃守護代になっていることがわかる。
 永正9年(1512年)、守護・土岐政房と対立し一旦尾張へ逃れ、織田氏の援助を得て再び美濃に戻り、墨俣城に籠城した。しかし、土岐政房と甥の大黒丸(又四郎の遺児)の軍勢に敗れ、8月23,24日頃に再度尾張へ亡命した。
 永正14年(1517年)、美濃では政房の後継をめぐって対立が起こり、12月27日には遂に合戦となった。彦四郎の甥の斎藤利良(長兄・利親の遺児)は嫡男・頼武を、政房と小守護代・長井長弘は次男・頼芸を推して戦ったが、この時は頼武派が勝利した。この合戦後、彦四郎は頼芸派と密かに連絡を取り、永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起きた。その結果、勝利した彦四郎は美濃に再び入国し、頼武は斎藤利良と共に越前の朝倉氏の元へ亡命した。
 永正16年(1519年)6月16日に政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武,利良と共に3000の兵で美濃に侵攻、連戦連勝して頼武の守護就任を実現させた。この頃、彦四郎は失脚、または戦死したと思われる。 

 父と祖父が明応5年(1497年)12月に近江で戦死した時は幼少のため、2人の叔父・又四郎,彦四郎が持是院家の当主を継いだ。
 美濃守護・土岐政房に仕えたが、その後継をめぐり意見が対立した。利良は政房の嫡男・頼武を推し、政房と小守護代・長井長弘は次男・頼芸を推した。それぞれ派閥を組み、永正14年(1517年)12月27日には遂に合戦となる。この合戦は頼武派の勝利に終わり、頼芸派は永正9年(1512年)に尾張へ亡命した前守護代・彦四郎と連絡を取り合い、逆襲の機会を狙った。
 永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。彦四郎は美濃に再入国し、逆に頼武と利良は、利良の従兄である越前の朝倉孝景(宗淳)を頼って亡命した。頼芸派は室町幕府に御内書を出してもらい、頼武を上洛させるよう朝倉氏に迫ったが、朝倉孝景はこれを無視した。この間も美濃国内で頼武派と頼芸派の合戦が続いている。
 永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景は弟の景高に美濃出陣を命令、景高は兵3000を率いて頼武,利良と共に美濃に侵攻、連戦連勝し、頼武は美濃守護となることができた。
 頼武政権下で利良は守護代として力を揮うが、永正18年(1521年)には目立った活動は見られなくなり、天文7年(1538年)9月1日に死去して、利親の弟・斎藤利茂(斎藤利為の子とも)が新守護代として登場する。

斎藤道三(利政) 斎藤義龍

 生年・生誕地については諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり山城乙訓郡西岡に住んでいたという。道三は11歳で京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
 その後、法弟であり学友の日護房(南陽房;斎藤利藤の子)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、日運の縁故を頼って美濃守護・土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
 勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄・政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。
 天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
 これらの所伝には、父の新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年の文書に長井規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。天文3年9月付の文書には道三単独の署名が現れ、それ以降、長井景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定される。道三が景弘を殺害した可能性もある。また道三は長井宗家の名跡を手に入れていたのかもしれない。いずれも確証はない。
 天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。翌年には利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。
 しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純は革手城に復帰した。
 天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。一方、頼純は同年11月に病死。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。
 帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と述べたと『信長公記』にある。
 この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
 天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し鷺山城に隠居した。 しかし道三は義龍よりも弟の孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。
 国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。享年63。
 戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡した。道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め後悔したという。道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝により鼻も削がれたという。 

 大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斎藤利政(道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚,高政といった。  天文23年(1554年)道三が隠居したため、美濃守護代・斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となる。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。
 その後、道三は義龍を「耄者」と断じ、「利口者」の孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせたことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。
 弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、弟の孫四郎,喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、仰天した道三は大桑城に落ち延びた。弘治2年(1556年)、義龍は長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。
 その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、室町時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。
 斎藤道三の末子である斎藤利治が尾張の織田家に亡命し、織田信長より偏諱を与えられ長龍と改名し美濃斎藤家当主を名乗る。義龍は尾張織田家との戦闘が続くなか京都の将軍家足利義輝より一色氏を称することを許され、美濃守護代家斎藤氏より改名、永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559年)には足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。さらに南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江の浅井久政とも戦う。しかし尾張国の織田信長の侵攻がより激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大は果たせなかった。
 永禄4年(1561年)、左京大夫(左京兆)に任じられるが、同年の5月11日に急死した。享年35。後を子の龍興が継いだ。 

斎藤龍興 斎藤孫四郎

 天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わるが、生母が近江の方(近江局)という説が事実であるならば、義龍正室の子となり嫡子となる。近江の方は浅井久政の娘という説があるが、義龍と久政は年齢が1つしか違わないため、近江の方は久政の実子ではなく養女ということになる。よって近江の方は、久政の父・浅井亮政の娘であるというのが有力な説となっている。義龍と道三の父子関係を肯定するのであれば、斎藤道三の実の孫に当たる。
 永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。しかし父の代から続く尾張国の織田信長の侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(森可成,坂井政尚,堀秀重,斎藤利治,明智光秀ら)、祖父や父と比べると凡庸で、評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより、家臣の信望を得ることができなかった。
 同年の森部の戦いにおいては、戦いそのものには勝利したものの、斎藤六宿老の日比野清実,長井衛安などを失う。永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没する。
 龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の進攻対象であった北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。しかし信長に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に美濃に侵攻するようになる。この時は義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退している。
 永禄6年(1563年)、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治の活躍もあって織田軍を破った(新加納の戦い)。しかし永禄7年(1564年)、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人・安藤守就によって飛騨守を殺害されて居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走した。後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により斎藤氏の衰退が表面化する。織田信長の永禄5年頃から始まった小牧山城築城により圧力がかかった東美濃においては、有力領主である市橋氏,丸毛氏,高木氏などが織田氏に通じるようになる。
 永禄8年(1565年)には、織田家に降った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれた。この時、関城主であり国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も織田家の武将となっていた斎藤利治に破れ、中濃地方も信長の勢力圏に入った。
 永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通や氏家直元,安藤守就らが信長に内応したため、遂に稲葉山城を信長によって落とされ(稲葉山城の戦い)、城下の長良川を船で下り、北伊勢の長島へと亡命することになる。当時20歳。以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。
 長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗活動は継続した。その後、伊勢から畿内へ移り、永禄12年(1569年)1月には三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を攻め殺そうとしたが、敗退している(本圀寺の変、六条合戦)。更に永禄13年(1570年)8月には、三好康長,安宅信康,十河存保や石山本願寺法主・顕如らとともに三好三人衆の籠城を支援(野田城・福島城の戦い)。信長が朝倉・浅井に後背を脅かされ、退却するまで持ちこたえた。
 その後、縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景のもとへ逃れ、客将として遇されたという。天正元年(1573年)8月、義景が信長と対決するために近江国に出陣すると、これに従軍したが、朝倉軍が織田軍に敗れ刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した。一説によると、かつての重臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られたという(刀禰坂の戦い)。享年26。
 興国寺(富山市)の伝説によると、龍興は戦死してはおらず、家宝系図を持って永禄12年(1569年)、3月に越中国新川郡布市村に来て興国寺に隠れた。天下の情勢から家を再興することかなわずと悟った龍興は、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓した。開拓に当たって、仏の力である、お経の力なりと一族を励ましてこの地に住みついた。信長と本願寺の石山合戦が終わった天正8年(1580年)に九右ェ門はこの地を経力村と名づけた。慶長16年(1611年)、九右ェ門は家督を子に譲り、草高を持参して布市興国寺で出家、住持となった。興国寺には、龍興が持参したという鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられている。寛永9年(1632年)6月19日に示寂し、墓は富山市経力の本誓寺の前にあるという。享年87。九右ェ門の子孫は、文政3年(1820年)11月、越中国新川郡大泉村に移り、後に大正2年(1913年)11月、富山県新川郡堀川村小泉に転住したという。 

 斎藤道三の2男として生まれる。『信長公記』によると父道三と兄弟の義龍,喜平次の親子4人で稲葉山城に住んでいたという。
 弟・斎藤喜平次とともに父の道三に寵愛され、道三は孫四郎に「左京亮」を名乗らせ、跡継ぎにしようと計った。『信長公記』によれば、弟・喜平次とともに奢り高ぶり、しだいに長兄・斎藤義龍を侮るようになったいわれる。斎藤家の家督は天文23年(1554年)父・道三の隠居で長兄・義龍が継いでいたが、義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を計り、孫四郎らを自身のいる稲葉山城の奥の間に病を装って呼び出し、弘治元年(1555年)11月12日、酒に酔わせた後に自身の寵臣・日根野備中守弘就により、孫四郎は弟・喜平次ともども謀殺された。

 

斎藤喜平次 斎藤利堯

 斎藤道三の3男として生まれる。『信長公記』によると、道三と兄の義龍,孫四郎の親子4人で稲葉山城に住んでいたという。
次兄・斎藤孫四郎とともに父の道三に寵愛され、道三は喜平次に「一色右兵衛大輔」を名乗らせた。『信長公記』によれば、それにより次兄・孫四郎とともに奢り高ぶり、しだいに長兄・斎藤義龍を侮るようになったといわれる。斎藤家の家督は天文23年(1554年)父・道三の隠居で長兄・義龍が継いでいたが、義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を計り、喜平次らを自身のいる稲葉山城の奥の間に病を装って呼び出し、弘治元年(1555年)11月12日、酒に酔わせた後に自身の寵臣・日根野備中守弘就により、喜平次は次兄・孫四郎ともども謀殺された。

 

 『寛政重修諸家譜』には斎藤道三の子、『勢州軍記』には稲葉一鉄の甥とあり、一鉄の姉妹が道三に嫁いでいることは『稲葉家譜』にも記されているので、どちらも正しいと見られる。
 永禄年間に織田信長に降ったと見られ、加治田城を継いだ実弟の斎藤利治の要請により城代となった。天正3年(1575年)には信長より美濃国方県郡福光郷一円などを宛行われた。織田信忠が織田家家督と岐阜城を継ぐと、斎藤利治と同様にその家臣となった。
 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変当時は、岐阜城の留守居だったと見られるが、変報を受けると城を掌握し、6月4日には美濃瑞龍寺,崇福寺,千手堂,西入寺に禁制を掲げた。当時、大垣付近に在住していたイエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告によれば、「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」(1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡)とあり、利堯は織田信孝と明智光秀との間で中立を保ったようである。この頃、西濃では安藤守就が旧領を回復するため利堯の舅である稲葉一鉄の北方城を攻め、東濃では兼山城主の森長可が肥田忠政の米田城や妻木貞徳の妻木城を攻めるなど、国中が乱れていた。
 その後、羽柴秀吉と信孝が明智光秀を討ち、6月20日ごろ京都を出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆の人質を連れ、不破郡長松で引き渡しを行った。6月27日の清州会議により信孝に美濃国が与えられ利堯はその老臣となった。しかし東濃では城を追われた肥田忠政が加治田城に逃れたため、同年7月に森長可の兵が城に攻めよせた。利堯は総大将としてこれに対し激戦の上これを退けた(加治田・兼山合戦)。
 しかし、信孝と秀吉の対立の中で、利堯は稲葉一鉄に勧められて信孝から離れ、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いにより信孝が自害してからは、誰にも仕えなかったと伝わる。また、利堯は加治田・兼山合戦の後、ほどなく死去したという説もある。利堯を失い統制の失われた加治田衆は離散し、その多くは森家に仕え加治田城も廃城となった。
 加治田衆の長沼三徳と西村治郎兵衛は、隠棲しながら利堯の弟の斎藤利治の遺児・義興と市郎左衛門の2人を加治田城衣丸にて養育した、その後、長沼三徳と義興・市郎左衛門兄弟は、岐阜城主・織田秀信に仕えた。 

斎藤長龍(利治) 斎藤義興

 天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。長良川の戦い後、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は利治と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した。
 永禄8年(1565年)8月、佐藤忠能らと共に岸信周の堂洞城、同年9月には、長井道利の関城をそれぞれ攻め落とす(堂洞合戦、関・加治田合戦)。堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に忠能が隠居すると加治田城主となる。 この間の永禄8年(1565年)11月1日付で、信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている。兄の斎藤利堯を加治田城留守居とした。
 永禄11年(1568年)、近江国の六角義賢攻めに参陣する。その後も永禄12年(1569年)の伊勢国大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の近江国小谷城攻め、同年6月の姉川の戦いにも従軍する。石山合戦、朝倉討伐、小谷城攻めにも従軍。
 天正2年(1574年)、伊勢長島一向一揆攻めに参戦し鎮圧する。
 天正4年(1576年)、織田信忠が信長から織田家の家督と美濃国,尾張国を譲られ、岐阜城主となり、濃姫の養子となった前後から信忠付きの側近(重臣)となる。天正5年(1577年)、柴田勝家の北国攻めに滝川一益,羽柴秀吉,丹羽長秀などと共に従う(手取川の戦い)。天正6年(1578年)10月、神保長住への援軍として越中国へ派遣され、太田本郷城に入り、月岡野の戦いで河田長親率いる上杉軍を撃破し、信長・信忠より感状を与えられた。 この時期に摂津国で、織田信忠隊の加茂砦が荒木村重に夜襲にあった経緯もあり、信長は利治に越中国を速やかに撤退し、本国に戻るよう指示し、利治は直ちに撤収した。有岡城の戦いでは、一手を率いて勇戦した。
 その後しばらくは動きが明らかでなく、信忠軍団にありながら、甲州征伐にも参加した様子がない。
 天正10年(1582年)6月1日、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助けるため、京都二条妙覚寺へ信忠と宿をとり、信長は本能寺を宿とした。京都所司代の村井貞勝は本能寺向かいの自邸で宿をとった。
 6月2日払暁、明智光秀の謀反(本能寺の変)を知り、父・信長のいる本能寺へ救援に向かおうとする信忠に対し、利治ら側近は既に事態は決したから逃亡するように諭すが、信忠は明智軍による包囲検問を考慮し、貞勝の二条新御所へ移るべきとの提言により、逃亡を諦めて守りに向かない妙覚寺から二条新御所へ移り、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら防戦し明智勢を3度も撃退する。その間に、京都に別泊していた信長・信忠軍や馬廻りの者が徐々に駆けつけると、明智軍は近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓矢・鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃。その後、利治は火を放ち敵兵をよく防いだが、最後は同じ美濃斎藤氏一族の斎藤利三に攻められ、討死した。
 子に義興(新五郎)と市郎左衛門がいたが、しばらくして加治田城を預かっていた伯父の斎藤利堯が死去し、後継の立たないまま家臣が金山城の森長可に従ってしまい、2人は利治の家老・長沼三徳によって絹丸捨堀において養育された。後に三徳が織田秀信に紹介し2人は召し抱えられ、岐阜城の戦いでは池田輝政の家臣と交戦した。その後、義興は輝政に召し出され、市郎左衛門は越前松平家の松平直基へ仕官し、知行を与えられたともいう。娘の蓮与は浅井長政家臣・速水時久に嫁ぎ、速水守久らを産んだ。 

 美濃国加治田で生まれる。天正10年(1582年)6月2日、加治田城主である父の利治が本能寺の変で織田信長,信忠と共に討ち死にし、新たに城主となった利治の兄で織田信孝の家老の利堯も、信孝と対立した羽柴秀吉に付いた森長可との間で同年8月に加治田・兼山合戦を行った後、病死した。利堯が後継人を決めていなかったため、家臣の多くは森長可に仕え、加治田も長可の支配下となって城も廃城になった。そのため義興兄弟は、佐藤忠能から三代にわたり家老をつとめた長沼三徳によって、加治田の絹丸捨堀で養育され、元服後に織田秀信に仕えた。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが始まり、義興は弟・市郎左衛門,長沼三徳と共に岐阜城の戦いで池田輝政と交戦。三徳は戦死し、義興と市右衛門も負傷するが、戦後に輝政に召し抱えられた。弟の市郎左衛門は松平直基へ任官した。
 義興の子孫は岡山藩士として明治維新を迎え、現在まで続く。

 

斎藤市郎左衛門 斎藤正義
 加治田城主である父の利治が本能寺の変で主君・信忠を追って討死し、利治の兄・利堯も加治田・兼山合戦のしばらく後に病死して、加治田は森長可の領地となり城も廃城となったため、城下の絹丸捨堀に隠棲していた元家老の長沼三徳によって養われ、成人まで成長した。その後、岐阜城主・織田秀信に仕える。慶長5年8月23日、関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦いにおいて、兄・義興,三徳と共に戦うが、三徳は戦死。義興は負傷し、関の梅龍寺で養生後、池田輝政に仕えた。市郎左衛門は北山へ逃れ、後に松平直基に仕えた。 

 関白・近衛稙家の庶子に生まれ、13歳の時、稙家に家臣の瀬田左京を付けられて、比叡山横川恵心院に出家させられる。武事を好み、美濃国可児郡瀬田村出身と言われる左京の姉が斎藤道三の愛妾となっていた縁で、道三を頼ってその養子となる。ただし、大納言を称したことと、美濃斉藤氏持是院家の斎藤妙椿の孫の妙親が大納言を名乗っていることを関連付けて、斉藤氏の持是院家を継承した、とする説もある。
 1532年(天文元年)に16歳で元服すると、日根野弘就に従い手勢300を与えられて初陣を飾って、道三と敵対する土岐頼純方との合戦に活躍する。道三が東濃の足掛かりとして可児郡中井戸村の南の高山(古城山)山頂に「掻上げ」の城を築くと、兵力2,000の将としてその城に置かれた。1537年(天文6年)には、近辺の14諸将の協力を得て烏峰城を築城するが、これは道三の背景あってのものと推定される。翌年の1538年(天文7年)に正義はこの新城に入城すると、大納言を自称した。翌年の1539年(天文8年)8月には画工に命じて等身大の甲冑姿の肖像を書かせたが、これは浄音寺(現・可児市兼山。正義開基という)に現存し、恵那郡岩村大圓寺住僧明叔の讃がある。
 1548年(天文17年)2月、配下の久々利城主・久々利頼興に館へ酒宴に招かれて謀殺された。行年33歳。遺骸は浄音寺に葬られた。烏峰城は頼興の手勢500余人により落城し、頼興の一族の土岐十郎左衛門が留守代とされた。これに対し道三が報復せず、頼興も久々利城に優る烏峰城に自ら入城して正義に取って代わろうとしなかったのは、正義の勢力が拡大し意に沿わなくなったため、道三が配下の頼興を使って謀殺したからではないかという見方もある。
 なお、頼興は1583年(天正11年)1月、正義の孫・加木屋正則により討ち果たされた。 

斎藤帰蝶

 斎藤道三の3女。母は明智光継の娘・小見の方。当時、明智家は東美濃随一の名家であったため小見の方は正室として迎えられ、濃姫は正室唯一の子であったという。明智光秀とは従兄妹同士とされる。
 天文4年(1535年)に生まれ、天文13年(1544年)の加納口の戦いの後、織田家との和睦により信長の許嫁となったとされる。美濃方の交渉役は明智光安であり、平手政秀の才覚で政略結婚がまとまったという。 実際に信長に嫁いだ時期は天文18年(1549年)2月24日(1549年3月23日)とされ、天文22年(1553年)4月には、織田信長と斎藤道三が正徳寺にて会見を行っている。
 2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供は生母不明の者が多く、本当に子がいなかったかどうかは確認できない。『近江國輿地志』には御台出産の記事が存在する。濃姫の最期は正確には不明である。斎藤家の菩提寺常在寺に父・道三の肖像を寄進した後は、歴史から姿を消している。また濃姫の菩提寺は特定されていない。
 信長は夫婦別居した部下を叱ったり、羽柴秀吉夫妻の喧嘩に仲裁に出たりと、家庭における妻の内助の役割を高く評価していた言動が多いものの、実際の自身の妻である濃姫(正室)の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。このため濃姫の最期については様々な推測がなされている。