血筋的には、斎藤道三とは別の系譜の本来の美濃斎藤氏の一族。前室は斎藤道三の娘であったというが、史料的に明確なものではない。後室は稲葉一鉄の娘で、斎藤利宗,斎藤三存,それに末娘の福(春日局)らを産んだ。福は稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を誇った。 斎藤利三は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津の松山新介に仕え、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い稲葉氏の家臣となり、美濃曽根城主となった。しかし後に稲葉一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになったといわれている。光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老として用いられた。光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたる。 織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の直前、四国の戦国武将・長宗我部元親が光秀の家臣で親戚関係にあった斎藤利三とやりとりした書状が見つかった。書状で元親は四国侵攻を計画していた信長の命令に従う意向を示している。天正10年(1582年)、光秀が織田信長に対する謀反を計画すると、藤田行政,溝尾茂朝,明智秀満などの一部の重臣に計画を打ち明けているが、利三もそのメンバーの中に含められている。利三はその無謀さから秀満と共に光秀に対し反対したと言われている。しかし主君の命令には逆らえず、また光秀の恩義に報いるため、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる。 しかし、これには異説も存在し、当時信長が土佐の戦国大名で利三の妹婿である長宗我部元親攻撃のために織田信孝と丹羽長秀を四国に出撃させようとしていたことから、利三が変の主導的な役割を担ったとの説も存在している。 本能寺にて信長を討った後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛されたが、梅雨時だったため暑さにあたって病となり、衰弱していたという。秀吉の命令で六条河原で斬首となった。享年49。磔にされたともいわれる。首もしくは胴体は光秀とともに本能寺に晒されたと言われている。その後、利三の首は彼と親交の深かった絵師の海北友松により、京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺へ葬られた。 光秀は稲葉良通から利三と那波和泉守直治の2人の家臣を引き抜いて高禄で召し抱えたが、良通は抗議して信長に訴えた。信長は訴えを聞き入れて光秀に2人を返すように命じたが、光秀は拒否して「30万石の大禄を下されるとも、我は栄耀とは存じませぬ。良き士を求めるのも、ひとえに信長公への奉公のためでございます」と述べたと伝わる。信長は光秀の弁明を認めて利三が明智家の重臣になる事を承認したという(当初、信長は光秀の弁明に激昂して、折檻におよんだ)。 津田宗及らと度々茶の湯を嗜むなど、茶人としての教養を兼ね備えていたとされる。
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