<藤原氏>北家 御堂流 ― 御子左流

F781:藤原長家  藤原道長 ― 藤原長家 ― 那須資隆 F782:那須資隆


リンク F783F784F785・{G391
那須資隆 那須宗隆

 那須氏は、藤原道長の曾孫・藤原資家が、下野国那須郡に下向し、須藤貞信と称したのが祖であり、以後、須藤氏を称していたが、資隆の代から初めて那須氏を称したという。
 元々、源氏方の武士であった那須氏(須藤氏)は、平治の乱において、須藤資満,須藤資清が源義朝に従い、敗死している。しかし、資隆の時代には平氏寄りの立場をとったため、義朝の遺児である源頼朝が関東で挙兵した時にも、従ったのは資隆の子のうち十郎為隆と那須与一(宗隆、のち資隆)のみであり、残り9人の兄達は平氏に味方した。
 なお、11男の与一は、治承・寿永の乱の際、源氏方について屋島の戦いなどで活躍し、兄達を差し置いて那須氏当主となったと伝えられる。4男の久隆は那須七騎の福原氏の祖であり、10男の為隆は同じく那須七騎千本氏の祖である。5男の資之は与一の跡をうけて那須氏当主となった。他の子達もそれぞれ那須氏の支族の祖となり、那須氏の発展の礎となった。 

 一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。与一は十あまる一、つまり11男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠,浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
  『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えず、与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい(そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。『平家物語』の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年,1168年)頃に誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城の神田城と推測されることが多い。
 治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波・信濃など5ヶ国に荘園を賜った。また、十郎為隆を除く9人の兄達が、皆、平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が11男ながら那須氏の家督を継ぐこととなった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去。。なお、『寛政重修諸家譜』では文治5年(1189年)8月8日死去、『続群書類従』では建久元年(1190年)10月死去とある。家督は兄の五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である頼資が資之の養子となり家督を継ぐ。
 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し、父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。
 子孫についてはいないとされているが、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲けた(息子は越後那須氏の祖となる)という。その他、常陸国,出羽国,阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承や寺伝がある。

那須宗久 那須頼資

 鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎。那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
 元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。

 下野那須氏第4代当主。実父は宇都宮朝綱で第3代当主・那須資之の養子とされるが、初代当主・那須資隆(太郎)と朝綱娘との庶子(那須小太郎宗高)とする説もある。
 諱については、寺山観音寺所蔵の「那須継図次第」等では資頼、『玉燭宝典』紙背文書所収の那須系図等では頼資としているが、いずれの名乗りを見ても、烏帽子親である源頼朝から偏諱を与えられたということが窺える(資頼を初名、頼資をその改名後の諱とする説もある)。のちに頼朝が建久4年(1193年)に那須へ巻狩に出かけた際には既に当主は子の光資となっていたと伝わっていることから、系図通りの順番(資隆→資隆(与一)→資之→頼資)に継承があったと仮定するならば、当主として活動した時期は短期間であったと推測される。子の資長はのちの那須七騎伊王野氏の祖であり、その他の子も荏原氏や河田氏などの支族をおこしている。なお、娘の一人は小栗頼重(常陸小栗氏)に嫁いだが、その際に同行した侍女と小栗一族の男との間に生まれた子の末裔がのちの那須七騎大関氏となったという。 

那須光資 那須資村
 建久4年(1193年)、源頼朝から下野国内に領地を拝領し、さらに那須において巻狩を催した際、接待役を務め、鎌倉幕府の御家人としての那須氏の地位向上に努めた。正治元年(1199年)には領内に天性寺を創建している。なお、建久4年に催された那須巻狩の際に、那須与一が梶原景時といさかいをおこし、出家遁世したという説があるが、『吾妻鏡』のその前後の時期の記述には「那須太郎光助」しか登場しない。  念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟の那須資長およびその系統が継承したために資村は家督を継ぐことができず(鎌倉幕府の記録に資村の名前が登場しない)、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある。