| F781:藤原長家 | 藤原道長 ― 藤原長家 ― 那須資隆 | F782:那須資隆 |

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| 那須資隆 | 那須宗隆 |
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那須氏は、藤原道長の曾孫・藤原資家が、下野国那須郡に下向し、須藤貞信と称したのが祖であり、以後、須藤氏を称していたが、資隆の代から初めて那須氏を称したという。 |
一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。与一は十あまる一、つまり11男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠,浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。 |
| 那須宗久 | 那須頼資 |
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鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎。那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。 |
下野那須氏第4代当主。実父は宇都宮朝綱で第3代当主・那須資之の養子とされるが、初代当主・那須資隆(太郎)と朝綱娘との庶子(那須小太郎宗高)とする説もある。 |
| 那須光資 | 那須資村 |
| 建久4年(1193年)、源頼朝から下野国内に領地を拝領し、さらに那須において巻狩を催した際、接待役を務め、鎌倉幕府の御家人としての那須氏の地位向上に努めた。正治元年(1199年)には領内に天性寺を創建している。なお、建久4年に催された那須巻狩の際に、那須与一が梶原景時といさかいをおこし、出家遁世したという説があるが、『吾妻鏡』のその前後の時期の記述には「那須太郎光助」しか登場しない。 | 念仏宗に帰依し、親鸞上人の弟子となり信願房教念と号し、貞応2年(1223年)に慈願寺を創設した。78歳の長寿を保ったという。ただし、近年の異説として那須氏の家督は光資の後はその弟の那須資長およびその系統が継承したために資村は家督を継ぐことができず(鎌倉幕府の記録に資村の名前が登場しない)、資家の代になって北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある。 |