| F782:那須資隆 | 藤原道長 ― 藤原長家 ― 那須資隆 ― 福原久隆 | F783:福原久隆 | ● |

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| 福原資郡 | 福原資孝 |
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当初、福原資衝の娘を娶って養子となり福原氏の当主となったが、後に大田原資清の子の資孝を養子とし福原氏の当主の座を譲り、兄・森田資胤が家督を継いだことによって後継者が居なくなっていた森田氏の名跡を継いで森田姓を名乗った。兄を補佐し一族の重鎮として活動し、永禄3年(1560年)の小田倉の戦いではその戦功を兄より賞された。永禄6年(1563年)に大関高増や福原資孝らが上那須衆を扇動して佐竹義重に寝返った時も呼応せず、兄を支えた。 |
福原氏の家督を継いでいた福原資郡の娘を娶り、その養子として福原氏に入り、兄の大関高増、弟の大田原綱清とともに那須氏の実権を握った。永禄6年(1563年)には兄弟と共に謀略によって姉婿の佐久山義隆を暗殺した後、資孝が佐久山城を攻略し佐久山氏を追い落とした。同年に兄・高増が那須氏を裏切って上那須衆を扇動して佐竹義重に内通した時はこれにしたがって離反し、義父・資郡を敵に回している。永禄9年(1566年)に資郡の死によって完全に福原氏の実権を掌握した。 |
| 福原資広 | 福原資保 |
| 父とともに那須資晴に仕えた。天正13年(1585年)の薄葉ヶ原の戦いにおいて戦功を挙げる。天正18年(1590年)の小田原征伐では、父が豊臣秀吉に臣従して所領安堵を受けたのを機に家督を譲られる。だが、翌年病死したために、弟の資保が当主となった。 |
福原資孝の次男で、兄の福原資広の養子になり、慶長3年(1598年)11月に下野国那須郡福原にある2,610石の所領と家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して上杉景勝の南下に備えて皆川広照,服部正就らとともに大田原城を守備した。この功績により戦後、那須郡に300石を加増された。 |
| 福原資盛 | |
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元和元年(1615年)に初めて徳川秀忠に拝謁。元和3年(1617年)の秀忠上洛の際には病の父・資保に代わって供奉し、これ以後も父の代理で二度供奉をした。元和5年(1619年)には伏見において仰せを承り、松平重忠,秋元泰朝に属して駿府城番を務めた。 |