F761:藤原頼宗 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原頼宗 ― 藤原俊家 | F762:藤原俊家 |
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藤原俊家 | 藤原基頼 |
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長元4年(1031年)に叙爵。長元7年(1034年)右近衛中将に任ぜられる。長元9年(1036年)に蔵人頭に補任され、長暦2年(1038年)に従三位・参議に叙任されて公卿に列す。翌年に正三位に叙される。永承3年(1048年)に権中納言、康平8年(1065年)に権大納言に任ぜられる。晩年の承暦4年(1080年)に右大臣に昇る。 |
上流貴族の家に生まれたが、弓や馬,鷹,犬といった武芸を好み、武人としても活躍した。康和5年(1103年)に陸奥守に任じられ、翌康和6年(1104年)には鎮守府将軍を兼ねた。天永2年(1111年)頃には東北の蝦夷を討った。
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持明院通基 | 寛慶 |
白河院政期末から鳥羽院政期前半にかけて、武蔵守,因幡守,丹波守と受領を歴任したほか、左京権大夫を務める。鳥羽院政期後半の康治2年(1143年)頃には大蔵卿に任ぜられている。久安4年(1148年)10月10日卒去。享年59。 |
天台宗の僧侶。慶範,広算,賢暹らに教えを受け、寛治5年(1091年)に法眼に叙され、比叡山無動寺にある大乗坊に居住した。康和年間(1099~1104年)以降、藤原忠実の元に出入りして、病気平癒など各種の祈祷を行う。 |
皇覚 | |
延暦寺に入り、大谷座主・忠尋に師事。近江国東坂本椙生坊に住したことから、椙生坊法橋と号する。天台宗学、特に恵心流の探究に邁進し、後世において無動寺流,椙生流と称される一派の開祖となった。門下には範源(一説に皇覚の実子とも伝わる)、皇円らを育て、著書としては『一代心地抄』『五時口決』『三十四箇事書』『三十条口伝抄』『椙生枕双紙』『本懐抄』などを遺している。 |