<藤原氏>北家 御堂流

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藤原俊家 藤原基頼

 長元4年(1031年)に叙爵。長元7年(1034年)右近衛中将に任ぜられる。長元9年(1036年)に蔵人頭に補任され、長暦2年(1038年)に従三位・参議に叙任されて公卿に列す。翌年に正三位に叙される。永承3年(1048年)に権中納言、康平8年(1065年)に権大納言に任ぜられる。晩年の承暦4年(1080年)に右大臣に昇る。
 声がよく通り、歌を詠いあげるのがうまかったといわれ、その声に誘われて多政方という舞の名人と阿吽の呼吸で舞い踊ったことが『古今著聞集』に記録されている。
 能楽の「佐保山」の由来は、藤原俊家の一行が春日大社に参詣した際に佐保山の上に白雲のような物を見つける。その白い物は衣で、その衣をさらしていた女性にその謂われを尋ねると、和歌にも詠まれている特別な衣だと答え、奈良の山々や景色、その山神の神徳と君が代の万歳をことほぎ、神祭りを見せようと姿を消す。そして佐保山の姫が現われ神楽を奏したということにある。

 上流貴族の家に生まれたが、弓や馬,鷹,犬といった武芸を好み、武人としても活躍した。康和5年(1103年)に陸奥守に任じられ、翌康和6年(1104年)には鎮守府将軍を兼ねた。天永2年(1111年)頃には東北の蝦夷を討った。
 現在の京都市上京区に邸宅を構え、邸内に持仏堂を営んでこれを持明院と名付けたため、基頼の子孫は持明院家を称している。

 

持明院通基 寛慶

 白河院政期末から鳥羽院政期前半にかけて、武蔵守,因幡守,丹波守と受領を歴任したほか、左京権大夫を務める。鳥羽院政期後半の康治2年(1143年)頃には大蔵卿に任ぜられている。久安4年(1148年)10月10日卒去。享年59。
 天治年間(1124~26年)において、父の基頼が創建した持仏堂である持明院を改築・拡張して、安楽光院と改名。鳥羽上皇を招いて盛大な供養を行った。これ以降「持明院」の名称はその邸宅の名として残り、またその家の家号ともなった。3男の基家がこれを継承し、その子孫は羽林家の持明院家として発展した。

 天台宗の僧侶。慶範,広算,賢暹らに教えを受け、寛治5年(1091年)に法眼に叙され、比叡山無動寺にある大乗坊に居住した。康和年間(1099~1104年)以降、藤原忠実の元に出入りして、病気平癒など各種の祈祷を行う。
 天仁元年(1109年)に無動寺管領・多武峰座主に任じられ、天永2年(1111年)には権大僧都に叙される。この年の10月に延暦寺の悪僧の行動に対して白河法皇から解決策を求められた天台座主の仁豪が治安の安定化策を進め、これを受けた大衆が「悪事の停止」に関する奏状を法皇に提出したところ、無動寺を代表する寛慶は奏状への署名を拒否して白河法皇に対して異論を提出した。その後、座主・僧綱らの会議でも座主が責任をもって綱紀粛正を図るために権力を集中させようとする仁豪と東塔,西塔,横川,無動寺がそれぞれの責任で綱紀粛正を行うべきだとする寛慶が対立した。永久元年(1113年)には法性寺座主に任ぜられる。この年、延暦寺の大衆が清水寺を破却し、興福寺の僧兵が抗議の強訴を行った永久の強訴が行われ、興福寺側から事件の張本人として天台座主の仁豪とともに寛慶の配流が求められたが、平忠盛らの活躍で興福寺の強訴は鎮圧された。ところが、寛慶は清水寺の破壊の責任は仁豪にあると主張して天台座主の辞任を求め、これに同調した大衆が強訴を起こしたものの平忠盛ら検非違使によって追い返された。その後も仁豪の命令に従わず、翌永久2年(1114年)7月には大衆同志の衝突が起きたため、仁豪が寛慶による座主職奪取の企てであると白河法皇に訴えている。にもかかわらず、同年12月には法成寺の権別当に起用され、永久4年(1116年)には正式な別当となった。その後、保安元年(1120年)に僧都に叙されると、翌保安2年10月6日(1121年11月17日)、仁豪に代わって天台座主に任じられ、同時に権僧正に任ぜられた。だが、翌保安3年(1122年)8月には延暦寺と園城寺の対立の際の対応を巡って今度は根本中堂の大衆が寛慶を襲撃したため、比叡山を一時退去するも10月には帰山した。保安4年(1123年)に天台座主在位のまま死去した。

皇覚

 延暦寺に入り、大谷座主・忠尋に師事。近江国東坂本椙生坊に住したことから、椙生坊法橋と号する。天台宗学、特に恵心流の探究に邁進し、後世において無動寺流,椙生流と称される一派の開祖となった。門下には範源(一説に皇覚の実子とも伝わる)、皇円らを育て、著書としては『一代心地抄』『五時口決』『三十四箇事書』『三十条口伝抄』『椙生枕双紙』『本懐抄』などを遺している。
 また藤原忠実に近侍し、その信仰上の顧問的立場にもあったと伝わる。忠実の厚い信任の下、宇治成楽院御堂供養や宇治平等院一切経会、あるいは忠実の息女である高陽院藤原泰子の葬儀において、中心的な役割を担ったことでも知られている。