<藤原氏>北家 道兼流

F647:武茂泰宗  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 蒲池久憲 F648:蒲池久憲


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蒲池久憲 蒲池義久

 蒲池氏10代・宇都宮氏族蒲池氏(後蒲池)の祖。
 正平14年/延文4年(1359年)、筑後川の戦い(大保原の戦い)で、父・宇都宮懐久は伯父の貞邦と共に討ち死にしており、南朝の凋落後、久憲は所領のない九州に土着すべく、久留米近くの高良玉垂宮(高良大社)の社前で、やはり父を建武3年/延元元年(1336年)の多々良浜の戦いで失っていた南朝方の蒲池武久の娘と夫婦になる。久憲は武久討ち死に以来、約20年以上もの間、当主不在であり滅びかけていた渡辺党蒲池氏の名跡と遺領を継ぎ、蒲池久憲と名乗る。
 久憲は、筑後国守護の大友氏の傘下に入り、 文中2年/応安6年(1373年)10月に大友親世と菊池武朝が肥後国で激突した際、久憲は田尻鑑安ら筑後の諸将と共に大友軍に属し竹井に陣を構えたが、戦いは菊池氏の勝利となった。戦いとは別に久憲は、嫡子の義久、曾祖父の宇都宮貞泰以来、近しい同族でもあった豊前宇都宮氏の嗣子となる城井則房、一族の大木氏を継ぐ大木資貞をもうけ、一族の門脈を筑後に広め、蒲池氏は筑後随一の大身となる。また、久憲は応永年間(1394~1428年)に城郭を拡張して城下町を築いたとされることから、久憲がのちの蒲池氏発展の基礎を築いたといえる。
 久憲以前の嵯峨源氏の蒲池氏を「前蒲池」といい、久憲以後の宇都宮氏の蒲池氏は「後蒲池」と言う。後蒲池の時代には蒲池氏は筑後に広く門脈を広め、分家・支族を多数持ち、筑後十五城の筆頭大名となる。 

 蒲池氏の門葉を筑後に広めた。次男の大隅は今村氏を、3男の家久(鎮貞)は犬塚氏を、4男の泰秀(久種)は酒見氏を、5男の親房は城島氏をそれぞれ名乗り、筑後に敷衍した。中でも3男・家久の犬塚氏は、筑後国三潴郡犬塚からかつて前蒲池氏の祖の源満末が神埼荘司としていた肥前国神埼郡蒲田郷に移り、少弐氏の武将として独自の勢力を伸張させた。 
蒲池繁久 蒲池治久
 蒲池繁久は、筑後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏が連合して大友氏に反旗を翻した時、五条氏,星野氏,草野氏,問註所氏と共に大友氏側として出陣し、久憲以来の勲功を大友氏が評価するようになり、繁久は豊後・筑後の守護の大友親繁から「繁」の字を、嫡男の蒲池親久は、親繁の子・大友政親から「親」の字をそれぞれ下賜された。これ以降、大友氏歴代当主は蒲池氏の当主に対して名前の一字を与えることを通例とするようになり、蒲池氏も大友氏幕下の筑後国領主として存続することになった。 

 蒲池氏は、祖父・繁久の代より、大友氏幕下の筑後国領主として存続していた。慣例によって大友氏当主の大友親治から偏諱「治」の字を下賜されて治久と名乗っていることからおおよそこの年代に生きた人物である。
もともとは下筑後地方(筑後国南部)の領主であったが、文亀年間(1501~04年)に蒲池城の支城である柳川城を築城し、ここを蒲池氏の本拠とした(のち永禄年間(1558~70年)に孫の鑑盛によって同城の本格的な造作が行われている)。また同時期には長福寺を修改築し、以降この寺は蒲池氏累代の菩提寺となる(のちに崇久寺)。他には永正4年(1508年)5月に将軍・足利義尹(のちの義稙)の上洛の折にお供したという史実も残っている。
 横溝城に実弟の蒲池久弘を代官として在城させるなどして、蒲池氏の勢力拡大をはかったが、これを危惧した大友親治は、治久の次男・親広に上妻郡山下村の所領を与えて別家を興させることで蒲池氏の勢力を分割させた。二家に分割された長男・蒲池鑑久の嫡流(柳川の下蒲池)と次男・蒲池親広の分流(山下の上蒲池)は双方とも同格の大名分として扱われ、ともに筑後十五城に数えられる一族に発展していこととなる。
 享禄年間(1528~31年)以前に死去、遺体は崇久寺に埋葬された。家督は嫡男の鑑久が継ぎ、同時に柳川城主となった。

蒲池親広 蒲池鑑広

 蒲池氏の勢力の強大化を危惧した大友親治が蒲池親広に分家を起こさせ、蒲池氏の勢力分割をはかった。この分家が上蒲池家であり、その初代が親広である。
 この上蒲池流は、柳川城の蒲池嫡流(下蒲池、兄・鑑久の系統)の1万2千町(約12万石)に対して、8千町(約8万石⦆の勢力を有したとされ、ともに大名分として取り立てられて、筑後十五城に数えられる一族に発展していくこととなる。また、親広が永正年間(1504~21年)に居館を構えた地には、のちに、跡を継いだ子の鑑広によって山下城が築城され、以降これを居城とした。 

 大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗し、勢力が後退したことに乗じて龍造寺隆信が筑後に侵攻した時、筑後の大身は、耳川の戦いで討ち死にした蒲池鑑盛の子で父・鑑盛とは違い大友氏から離心していた柳川の蒲池鎮漣や鷹尾の田尻鑑種をはじめ草野鎮永,黒木家永など大半が龍造寺隆信に与したのに対し、蒲池鑑広は龍造寺氏の侵攻に備えた。
 鑑広は、龍造寺氏の侵攻を予測して家老の矢加部国広と共に籠城態勢を固め、菖蒲尾など所領の上妻郡の各地に兵を配し、天然の要害でもある山下城で龍造寺氏を迎え撃った。龍造寺氏は蒲池鑑広の山下城を包囲し、激しく攻め立てるが、天然の要害でもある山下城に籠もり頑強に抵抗する蒲池氏を攻めあぐねた。鑑広は、立花道雪に大友氏の加勢を求めたが、大友氏には耳川敗戦後の自家の立て直しで精一杯であり、蒲池鑑広を助ける助力は無く、やむなく鑑広は秋月種実の仲介で龍造寺氏と和睦する。
 蒲池鑑広の墓碑は、福岡県八女市立花町山下の山麓にある。 

蒲池鎮種 犬塚尚重

 龍造寺氏が筑後国に侵攻した時、大友氏幕下の蒲池鑑広は天然の要害ともいえる山下城に籠もり徹底的な抗戦を展開した。しかし、耳川の戦いの敗北後の大友氏には蒲池鑑広を支援する力はなく、鑑広は龍造寺氏と講和する。この時に、龍造寺氏への人質とされたのが幼名を源十郎という鎮種だった。その後、蒲池氏と龍造寺氏が再び戦いに及んだ時、龍造寺隆信は鎮種の磔を命じたが、萬寿寺の大雄禅師の計らいで鎮種は肥前を脱出する。筑後に戻り、しばらくして大雄禅士が肥前を追放されたことを知り、崇久寺で剃髪する。その後、天正17年(1589年)に京都に上り、比叡山延暦寺で7年間修行した後、鎌倉の建長寺に寓居。京都に戻り、浄土真宗の光壽尊人に謁して真門に入り、全融と名を改める。
 慶長3年(1598年)に筑後に戻り、上蒲池の家老の矢加部国広が預かっていた川瀬の館に居住。蒲池氏分流3代である兄の蒲池鎮運と寺の建立を話し合うが、関ヶ原の戦いにて鎮運は、石田三成の西軍側にあって敗れたため宿願は果たせないままになった。元和元年(1615年)、溝口館を守っていた家臣の横溝一族の助力を得て、翌年、西念寺は落成。全融を開基とし、蒲池一族の菩提寺となる。 

 『北肥戦誌』は尚重を「獅子王」と呼ばれる程の勇将であったと記述する。
 元は少弐氏の家臣。天文22年(1553年)、土橋栄益らによって肥前を追われていた龍造寺隆信が村中城を奪還し、その勢いで小田政光を攻めた際には、隆信が義兄であるにもかかわらず直鳥城の犬塚鎮尚と共に政光を助勢している。
 永禄3年(1560年:永禄4年とも)、隆信により領地の蒲田江から追われるが、翌年に和睦し龍造寺氏に従属すると、元の領地への帰還が叶った。しかし、永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)が龍造寺討伐軍を催し肥前へ入国すると、大友氏に鞍替えする。更に尚重は、同じ犬塚氏で隆信へ忠誠を誓う崎村城の犬塚鎮直を誘殺しようと企て、相談ありとして誘き寄せたが、謀略であると察した鎮直と家臣を交えての斬り合いとなり双方共に討ち死にした。
 その後、鎮直の遺臣が兵を集めてすぐさま蒲田江城を攻め落としたため、尚重の継室は子と共に実弟・龍造寺長信の元へ逃れるが、長男の三郎家清は尚重の前室との子であるため、野心の者の子を援け置くべきにあらずとして鍋島信昌(後の鍋島直茂)により殺された。尚重の継室は横岳頼続へ再嫁し、尚重の次男は隆信に養育されると、初め龍造寺信尚、後に犬塚茂続と名乗った。 

犬塚鎮家

 少弐氏・龍造寺氏の家臣。肥前国神埼郡小松城主で、「藤津両弾二島」の一人。龍造寺氏配下の武勇優れた4人(大村弾正・犬塚弾正・百武志摩守・上瀧志摩守)を両弾二島と呼び賞賛した。
 享禄3年(1530年)、田手畷の戦いでは父・家清と共に少弐資元に属して大内義隆と戦う。永禄12年(1569年)の東西犬塚氏の抗争では西犬塚を支持する。天正4年(1576年)、龍造寺隆信の肥前藤津郡横澤城攻めで先陣を切る。天正9年(1581年)、龍造寺政家の肥後国侵攻に従軍した。五ヶ国御領地之節配分帳には犬塚盛家570町とある。