| F647:武茂泰宗 | 藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 蒲池久憲 | F648:蒲池久憲 |


| リンク | F649 {F664}{YA04} |
| 蒲池久憲 | 蒲池義久 |
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蒲池氏10代・宇都宮氏族蒲池氏(後蒲池)の祖。 |
蒲池氏の門葉を筑後に広めた。次男の大隅は今村氏を、3男の家久(鎮貞)は犬塚氏を、4男の泰秀(久種)は酒見氏を、5男の親房は城島氏をそれぞれ名乗り、筑後に敷衍した。中でも3男・家久の犬塚氏は、筑後国三潴郡犬塚からかつて前蒲池氏の祖の源満末が神埼荘司としていた肥前国神埼郡蒲田郷に移り、少弐氏の武将として独自の勢力を伸張させた。 |
| 蒲池繁久 | 蒲池治久 |
| 蒲池繁久は、筑後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏が連合して大友氏に反旗を翻した時、五条氏,星野氏,草野氏,問註所氏と共に大友氏側として出陣し、久憲以来の勲功を大友氏が評価するようになり、繁久は豊後・筑後の守護の大友親繁から「繁」の字を、嫡男の蒲池親久は、親繁の子・大友政親から「親」の字をそれぞれ下賜された。これ以降、大友氏歴代当主は蒲池氏の当主に対して名前の一字を与えることを通例とするようになり、蒲池氏も大友氏幕下の筑後国領主として存続することになった。 |
蒲池氏は、祖父・繁久の代より、大友氏幕下の筑後国領主として存続していた。慣例によって大友氏当主の大友親治から偏諱「治」の字を下賜されて治久と名乗っていることからおおよそこの年代に生きた人物である。 |
| 蒲池親広 | 蒲池鑑広 |
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蒲池氏の勢力の強大化を危惧した大友親治が蒲池親広に分家を起こさせ、蒲池氏の勢力分割をはかった。この分家が上蒲池家であり、その初代が親広である。 |
大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗し、勢力が後退したことに乗じて龍造寺隆信が筑後に侵攻した時、筑後の大身は、耳川の戦いで討ち死にした蒲池鑑盛の子で父・鑑盛とは違い大友氏から離心していた柳川の蒲池鎮漣や鷹尾の田尻鑑種をはじめ草野鎮永,黒木家永など大半が龍造寺隆信に与したのに対し、蒲池鑑広は龍造寺氏の侵攻に備えた。 |
| 蒲池鎮種 | 犬塚尚重 |
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龍造寺氏が筑後国に侵攻した時、大友氏幕下の蒲池鑑広は天然の要害ともいえる山下城に籠もり徹底的な抗戦を展開した。しかし、耳川の戦いの敗北後の大友氏には蒲池鑑広を支援する力はなく、鑑広は龍造寺氏と講和する。この時に、龍造寺氏への人質とされたのが幼名を源十郎という鎮種だった。その後、蒲池氏と龍造寺氏が再び戦いに及んだ時、龍造寺隆信は鎮種の磔を命じたが、萬寿寺の大雄禅師の計らいで鎮種は肥前を脱出する。筑後に戻り、しばらくして大雄禅士が肥前を追放されたことを知り、崇久寺で剃髪する。その後、天正17年(1589年)に京都に上り、比叡山延暦寺で7年間修行した後、鎌倉の建長寺に寓居。京都に戻り、浄土真宗の光壽尊人に謁して真門に入り、全融と名を改める。 |
『北肥戦誌』は尚重を「獅子王」と呼ばれる程の勇将であったと記述する。 |
| 犬塚鎮家 | |
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少弐氏・龍造寺氏の家臣。肥前国神埼郡小松城主で、「藤津両弾二島」の一人。龍造寺氏配下の武勇優れた4人(大村弾正・犬塚弾正・百武志摩守・上瀧志摩守)を両弾二島と呼び賞賛した。 |