<藤原氏>北家 道兼流

F648:蒲池久憲  藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 蒲池久憲 ― 蒲池鑑久 F649:蒲池鑑久

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蒲池鑑久 蒲池鑑盛

 蒲池氏15代、後蒲池6代。曽祖父・繁久の代から代々大友氏当主から偏諱を賜るようになり、鑑久もこれに倣って大友義鑑から1字を賜った。
 父・治久の時、柳川城を築城し、蒲池城から蒲池氏の本拠をここに移していた。大友氏に属し、筆頭大名として筑後の城持大名を統率したという。弟の蒲池親広は、山下城を本拠地として分家し、柳川の蒲池本流を下蒲池と呼ぶのに対して、山下の蒲池分流は上蒲池と呼ばれる。この場合の上、下とは、上=東、下=西と方向を指し、柳川は西にあるため本流が下蒲池、山下は東にあるため分流が上蒲池という。
 この当時、九州の諸侯には将軍の上洛の折にお供するという慣例があり、『西国盛衰記』には筑後十五城の筆頭である蒲池鑑貞がこれを怠ったため、天文年間(1532~55年)に府内に呼び出されて斬られたという記述があり、この鑑貞が鑑久のことではないかとされる。当時は毎年、八朔(8月1日)に筑後守護職大友氏当主の検閲を受け、忠誠を誓わされており離反する者は征伐されることになっており、これにならって義鑑の命によって討伐されたものと思われる。死後、家督を継いだ嫡男・鑑盛は引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の2代に亘って臣従した。

 筑後国南部に1万2千町(約12万石)を領した大身。筑後十五城筆頭大名として筑後を統轄。それまでの蒲池城に代えて、柳川城を本格的に造作し、現在の柳川市のルーツとなる城下町としても形成されつつあった。
 筑後守護大友氏の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法家,勇将として、筑前国・肥前国など各地に転戦する。 『西国盛衰記』によれば、父の鑑久は将軍のお供をするという役目を怠って大友氏に討伐されたとされるが、主君を恨むことなく引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の2代に亘って臣従した。
 また、大友氏に従うだけでなく、近隣の勢力である龍造寺家兼やその曾孫である龍造寺隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。戦以外では、保護を求めてきた者は、たとえ敵側の者であれ手厚く保護したことから、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚く清廉な武将であった。龍造寺家兼に続き、隆信が肥前を追われた時も家臣の原野恵俊に面倒を見させ、のちに隆信は佐賀城の奪回に成功することになる。
 鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟との間の門司城をめぐる戦い(門司城の戦い)や、また毛利氏に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦、さらに大友氏に対して何度も叛いた龍造寺隆信の討伐戦などに大友方として度重なる出陣をしており何度も大友宗麟からの感状を受けている。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった今山の戦いにおいても蒲池鑑盛は田尻親種と共に大友宗麟からじきじきの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し激闘を繰り返した。
 天正6年(1578年)、北上する島津氏と大友氏との間の日向国の耳川の戦いには、大友軍の一翼として初老の身で病身だったが、嫡子の蒲池鎮漣や三男の蒲池統安と共に3千の兵を従えて出陣。すでに家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城するが、鑑盛は、大友氏への忠義一筋で、大友軍総崩れの中にあって、直属の兵約1千と島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦し、統安と共に壮烈な最期をとげた。 

蒲池鎮久 蒲池貞久
 蒲池鑑盛の長子だが、庶子であるため蒲池氏の家督を継がず、代わりに嫡男として継いだ弟の蒲池鎮漣を自身は家老という形で補佐した。天正9年(1581年)、敵対していた龍造寺氏との和睦に伴い、鎮漣の肥前国行きに同行するが、龍造寺隆信の襲撃を受け、奮戦するも討ち死にした。 

 天正9年(1581年)、父の鎮久が肥前国与賀神社で主家の蒲池鎮漣と共に龍造寺隆信に謀殺され、続いて柳川城が落城したが、貞久は支城の塩塚城近くの農家に預けられていたため死を免れる。
 その後、元服し、柳川城主となった龍造寺家晴の家臣となる。家晴は、蒲池一族を残らず殲滅しようとした主家の龍造寺隆信とは距離を置き、龍造寺氏にとって大恩ある蒲池鑑盛の孫にあたる貞久を取立てて血筋を残そうとした。また、家晴は龍造寺隆信の探索を逃れるため、貞久の子の兼久に公文姓を名乗らせている。死後、子の兼久が跡を継いだ。

蒲池鎮漣 蒲池宗壽

 兄・鎮久は庶長子であるため、鎮漣が蒲池氏17代目として柳川の蒲池氏嫡流の家督を継ぎ、鎮久は家老として鎮漣を補佐する立場となった。
 天正6年(1578年)、耳川の戦いで隠居の身であった父や弟・統安らと共に3千の兵を率いて大友方として出陣する。しかし、大友氏への忠義に厚い父とは異なり、鎮漣は大友氏からの独立志向を持っていたため、仮病を装って病を口実に直属の兵2千を伴って柳川へ帰還した。父・鑑盛と弟・統安はこの戦いで討死する。
 鎮漣は龍造寺隆信に幕下の礼をとり、その筑後国進攻に全面的に協力する。しかし、やがて隆信と対立するようになった。隆信は天正9年(1581年)に2万の兵で柳川城を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城はなかなか落ちなかった。しかし、長期の籠城で城兵も疲弊し、城内の兵糧も尽きたので、鎮漣は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦し、鎮漣に隆信の娘(玉鶴姫)が嫁すことを約した。柳川は隆信が九州中央へ進出するにあたって必要不可欠な地であったが、鎮漣は薩摩の島津氏への接近を図っていた。
 蒲池氏が島津の傘下に入ることを恐れた隆信は、家臣の鍋島直茂や、隆信に与していた田尻鑑種などと共に鎮漣の謀殺を画策する。柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に誘った。鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信の使者は執拗かつ丁重に鎮漣の母や重臣を説得してまわり、ついに断りきれなくなった鎮漣は兄・鎮久をはじめ選りすぐりの屈強な家臣200名を連れて柳川を出発する。鎮漣の従兄弟で留守役をつとめた家老の大木統光が鎮漣の肥前行き中止を進言するが、鎮漣の決意を変えることはできなかった。
 筑後川を渡って肥前に入った鎮漣は佐賀城で隆信の嫡男・政家の歓待を受けるが、その翌日、与賀神社の近くで龍造寺の部隊に襲撃される。蒲池氏200の精兵は奮闘するも、多勢に無勢で鎮漣は自害、鎮久はじめ鎮漣の郎党は全員討死した。鎮漣の死を見届けた隆信は、時を置かずに柳川の鎮漣一族の抹殺を命じ、鍋島直茂の督戦の下、田尻鑑種が柳川に兵を進め柳川の戦いが行われた。これには諸将も驚き、隆信の腹心からも疑問を持たれた。龍造寺四天王の一人・百武賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し、最後まで出陣しなかった。鍋島直茂とともに、鎮漣謀殺の討手の大将をつとめた石井信忠(直茂の義甥)もまた、龍造寺氏の衰亡を案じる言葉を残した。龍造寺氏にとって、蒲池鎮漣が島津氏の支配下に入ることは絶対に許せないことではあったが、鎮漣の一族まで根絶やしにしたことは、隆信に対する筑後の有力国人の強い反発、離反を招いた。なお、鎮漣の妻・玉鶴姫は父・隆信が夫を殺害したことを知ると、実家の龍造寺家には戻らず、鎮漣の後を追うべく蒲池氏の支城のある塩塚で自害している。 

 大友氏の譜代重臣・朽網氏の出身だが、嫡流の鎮則が島津氏に内通したとして殺さたため、父・鑑房は浪々のまま玖珠で不遇のうちに死去した。『筑後国史』によれば、宗壽は母の蒲池徳子の郷里の筑後国へ行き、柳川の蒲池氏菩提寺の崇久寺の食客となり、蒲池姓を名乗ったとされる。 
窪田鎮勝 窪田鎮章

 幼少の頃に事件を起こし江戸に出、義理の伯父・内藤歳由の周旋で、甲斐国武田氏家臣の後裔という幕臣の窪田氏の名跡を継ぎ、窪田鎮勝と名のる。武術に優れ、旗本となり、幕府の講武所では柔術の教授となった。
 1844年(天保15年)3月に羽田奉行支配下の支配組頭に任じられたが、前年に水野忠邦が老中を罷免された影響により、同年5月には羽田御備場の廃止が決定され、富士見宝蔵番に転任となった。
 御三卿の田安徳川家の奥詰を務めていた鎮勝は、幕府が「尽忠報国の士」の募集を発表し、浪士取締役に松平主税之介がなった時、中条金之助と共に取締役に任命される。この浪士組が清河八郎らによるものであり、京都に上り、そこから近藤勇や土方歳三らの新撰組が生まれているのはよく知られている。京都に上った浪士組に対して鎮勝と中条金之助は江戸に残り、期日遅れの応募者への対応を勤めた。浪士組,新撰組との関係でいえば、鎮勝は佐々木只三郎と交流があり、新撰組で後に伊東甲子太郎の御陵衛士になる篠原泰之進は、一時期、鎮勝の屋敷の居候となっていた。また、「坂本龍馬を斬った男」とされる今井信郎は鎮勝の柔術の弟子で、今井はその後京都へ行き、佐々木只三郎の京都見廻組に入る。
 攘夷論においては鎮勝は、津和野藩の国学者・大国隆正らが唱えた「大攘夷」論の立場にあった。これは単なる攘夷ではなく、まず国内統一を行い、開国し、外国との交易により富国強兵を図ってでも、諸外国と対等に対峙できる国力をつけるべきだという立場である。
 鎮勝は浪士取締役の後、神奈川奉行所の定番役頭取取締の任を経て西国郡代になる。西国郡代として豊後国日田に赴任することは弟の江口鎮誠が家督を継いだ実家の江口家の郷里の近くに戻ることであり、また曾祖母の先祖の蒲池氏の地である九州に戻ることであり、かねてより希望していたことだった。日田に赴任した鎮勝は、蒲池氏の菩提寺の崇久寺に墓参し、また同寺で、山門郡塩塚から来た柳河藩の蒲池鎮之と何度か面談した記録が残っている。
 鎮勝は神奈川奉行所に在勤中に学んだイギリス式兵制に倣い、戊辰戦争時期には農兵の制勝隊を組織して幕府側に立つが、九州日田で孤立していては如何ともし難く、隊を解散し、自身は江戸に逃走している。
 明治になると、他の旗本と同じく静岡に移り、同地で死去した。享年70。墓は万象寺にあり、「克斎蒲池先生」と刻まれ、静岡湾に面して立っており、横には鳥羽・伏見の戦いで幕将として戦死した息子の鎮章の墓碑が並ぶ。
 子孫である作家の広津和郎は、鎮克は晩年に交際のあった清水次郎長が鎮克の前で縁側に座ったために突き飛ばしたと書いている(町人は武士の家で縁側に座ってはいけないため)。 

 文政10年(1827年)、西国郡代の窪田治部右衛門鎮勝の子として誕生。安政4年(1857年)6月、講武所調方出役軍制改正御用に任じられ、安政5年10月に外国奉行支配書物御用出役、文久元年(1861年)2月には神奈川奉行支配調役並出役、12月には同支配調役並、文久3年2月には同支配調役および定番役頭取、4月13日の清河八郎暗殺に関与した。
 元治元年(1864年)7月25日、同頭取から頭取取締へ昇進、約1,500人規模の洋式軍隊を英仏横浜駐屯軍の駐在する横浜で指揮した。現地徴集の農兵などを洋式歩兵に仕立て、また駐留するイギリス第20連隊からも調練を受け、合同演習もこなせる錬度に仕上げた。鎌倉事件では犯人捕縛に尽力したことで、駐留イギリス軍からも日本側司令官として高く評価された。慶応2年(1866年)5月4日に鉄砲玉薬奉行に転出した。慶応3年10月18日に歩兵頭並、12月に進出先の大坂で歩兵頭となり備前守に昇進した。慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いで幕府陸軍を指揮して戦死した。享年41。
 葬儀は、生家の先祖蒲池氏の遠祖の嵯峨源氏の源融ゆかりの寺である摂津国の太融寺(大阪市北区梅田)で行われた。墓は、東京都豊島区駒込の染井霊園と、静岡市清水区の万象寺にある。なお、鎮章の嫡子は彰義隊に加わり上野で戦死。別の鎮章の子は窪田氏の名跡を継ぎ、父の鎮克が晩年に復姓した先祖の蒲池氏の名跡は鎮章の妹の婿の蒲池鎮厚が継いだ。


蒲池鑑続 蒲池統安

 蒲池家系図によれば、蒲池氏17代・蒲池鎮漣には、嫡子の宗虎丸(蒲池統虎/久鎮)、宮童丸(経信)、蒲池鑑続、徳姫(蒲池徳子)という子がいる。嫡子の宗虎丸は、天正9年(1581年)の柳川の戦いの際、支城の塩塚城で殺害されたが、その名跡を継いだのが鑑続とされる。鑑続の子孫は、龍造寺氏の探索から逃れるために、蒲池久一の子・久成の時に母方の首藤氏を名乗り、その経緯から鑑続も首藤鑑続とも呼ばれる。
 蒲池鎮漣の子孫で有名なのは、徳子の子孫だが、鎮漣の嫡子・宗虎丸の名跡を継いだことから、鑑続(首藤鑑続)の系統が、あえて言えば鎮漣以降の蒲池氏嫡流ともいえる。鑑続の子孫は筑後国郷士となり、医師や学者・造酒業者を多く輩出した一族として繁茂、幕末の風雲にあっても九州を中心に各地で活躍する。城島の銘酒「池亀」の社主の蒲池氏や、「比翼鶴」の社主の二宮氏は、この子孫である。 

 天正6年(1578年)の耳川の戦いに、父の鑑盛,兄の鎮漣と共に3千の兵を従えて大友氏方の武将として出陣。すでに家督を継いでいた兄の鎮漣は、直属の兵2千余を引き連れて柳川に帰城。戦いは、島津氏の「釣り野伏戦法」により大友氏の大敗北となるが、その中で、父の鑑盛と共に統安は、島津氏の本営への突入を何度も果敢に試み、父と共に壮烈な討死をする(この時は筑後に戻り、柳川の戦いで討ち死にしたともいわれる)。柳川市の沖ノ端のニ宮神社に、甥の宗虎丸(蒲池久鎮)と共に祭神とされる。 
応誉 蒲池鎮之

 円蓮社応誉上人雲冏和尚は浄土宗の僧。筑後国瀬高の来迎寺の住職。柳川の良清寺の開祖。 天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友氏方として参陣した祖父・蒲池鑑盛と父・統安の戦死や、柳川城主の伯父・蒲池鎮漣が龍造寺氏に謀殺され蒲池氏が滅ぶと、応誉は菩提を弔うため僧籍に入り、後に瀬高上荘の来迎寺の第4世住職となった。
 その後、柳川藩祖の立花宗茂が正室の誾千代の菩提寺を建てる時、応誉が呼ばれ良清寺を開く。以後、応誉の子孫は良清寺を預かり代々住職を出すと共に、蒲池の名跡を再興し、立花氏の家老格の家となった。
 なお、幕末に江戸幕府最後の西国郡代となった旗本の蒲池鎮克と、蒲池氏菩提寺である蒲池村の崇久寺で面談した記録のある柳川藩士の蒲池鎮之は、この応誉の子孫であり、歌手の松田聖子(本名・蒲池法子)の高祖父にあたる。 

 幕末の柳河藩士。蒲池統安(塩塚城主)の子である円蓮社応誉上人雲冏和尚の子孫。応誉は後に柳川藩祖の立花宗茂の正室である誾千代の菩提寺として良清寺を創建し、この子孫が蒲池家の名跡を再興することとなる。良清寺を預かる蒲池家は代々の住職を出し、また武家として立花氏柳川藩の家老格に遇された。鎮之は、先祖を同じくする窪田鎮勝(蒲池鎮克)が、柳川郊外の蒲池村にある蒲池氏の菩提寺である崇久寺を参った時、何度か面談している。
 また、玄孫は、歌手で女優の松田聖子(出生名:蒲池法子)。来孫は、歌手で女優の神田沙也加。