| F648:蒲池久憲 | 藤原師輔 ― 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 蒲池久憲 ― 蒲池鑑久 | F649:蒲池鑑久 | ● |

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| 蒲池鑑久 | 蒲池鑑盛 |
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蒲池氏15代、後蒲池6代。曽祖父・繁久の代から代々大友氏当主から偏諱を賜るようになり、鑑久もこれに倣って大友義鑑から1字を賜った。 |
筑後国南部に1万2千町(約12万石)を領した大身。筑後十五城筆頭大名として筑後を統轄。それまでの蒲池城に代えて、柳川城を本格的に造作し、現在の柳川市のルーツとなる城下町としても形成されつつあった。 |
| 蒲池鎮久 | 蒲池貞久 |
| 蒲池鑑盛の長子だが、庶子であるため蒲池氏の家督を継がず、代わりに嫡男として継いだ弟の蒲池鎮漣を自身は家老という形で補佐した。天正9年(1581年)、敵対していた龍造寺氏との和睦に伴い、鎮漣の肥前国行きに同行するが、龍造寺隆信の襲撃を受け、奮戦するも討ち死にした。 |
天正9年(1581年)、父の鎮久が肥前国与賀神社で主家の蒲池鎮漣と共に龍造寺隆信に謀殺され、続いて柳川城が落城したが、貞久は支城の塩塚城近くの農家に預けられていたため死を免れる。 |
| 蒲池鎮漣 | 蒲池宗壽 |
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兄・鎮久は庶長子であるため、鎮漣が蒲池氏17代目として柳川の蒲池氏嫡流の家督を継ぎ、鎮久は家老として鎮漣を補佐する立場となった。 |
大友氏の譜代重臣・朽網氏の出身だが、嫡流の鎮則が島津氏に内通したとして殺さたため、父・鑑房は浪々のまま玖珠で不遇のうちに死去した。『筑後国史』によれば、宗壽は母の蒲池徳子の郷里の筑後国へ行き、柳川の蒲池氏菩提寺の崇久寺の食客となり、蒲池姓を名乗ったとされる。 |
| 窪田鎮勝 | 窪田鎮章 |
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幼少の頃に事件を起こし江戸に出、義理の伯父・内藤歳由の周旋で、甲斐国武田氏家臣の後裔という幕臣の窪田氏の名跡を継ぎ、窪田鎮勝と名のる。武術に優れ、旗本となり、幕府の講武所では柔術の教授となった。 |
文政10年(1827年)、西国郡代の窪田治部右衛門鎮勝の子として誕生。安政4年(1857年)6月、講武所調方出役軍制改正御用に任じられ、安政5年10月に外国奉行支配書物御用出役、文久元年(1861年)2月には神奈川奉行支配調役並出役、12月には同支配調役並、文久3年2月には同支配調役および定番役頭取、4月13日の清河八郎暗殺に関与した。 |
| 蒲池鑑続 | 蒲池統安 |
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蒲池家系図によれば、蒲池氏17代・蒲池鎮漣には、嫡子の宗虎丸(蒲池統虎/久鎮)、宮童丸(経信)、蒲池鑑続、徳姫(蒲池徳子)という子がいる。嫡子の宗虎丸は、天正9年(1581年)の柳川の戦いの際、支城の塩塚城で殺害されたが、その名跡を継いだのが鑑続とされる。鑑続の子孫は、龍造寺氏の探索から逃れるために、蒲池久一の子・久成の時に母方の首藤氏を名乗り、その経緯から鑑続も首藤鑑続とも呼ばれる。 |
天正6年(1578年)の耳川の戦いに、父の鑑盛,兄の鎮漣と共に3千の兵を従えて大友氏方の武将として出陣。すでに家督を継いでいた兄の鎮漣は、直属の兵2千余を引き連れて柳川に帰城。戦いは、島津氏の「釣り野伏戦法」により大友氏の大敗北となるが、その中で、父の鑑盛と共に統安は、島津氏の本営への突入を何度も果敢に試み、父と共に壮烈な討死をする(この時は筑後に戻り、柳川の戦いで討ち死にしたともいわれる)。柳川市の沖ノ端のニ宮神社に、甥の宗虎丸(蒲池久鎮)と共に祭神とされる。 |
| 応誉 | 蒲池鎮之 |
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円蓮社応誉上人雲冏和尚は浄土宗の僧。筑後国瀬高の来迎寺の住職。柳川の良清寺の開祖。 天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友氏方として参陣した祖父・蒲池鑑盛と父・統安の戦死や、柳川城主の伯父・蒲池鎮漣が龍造寺氏に謀殺され蒲池氏が滅ぶと、応誉は菩提を弔うため僧籍に入り、後に瀬高上荘の来迎寺の第4世住職となった。 |
幕末の柳河藩士。蒲池統安(塩塚城主)の子である円蓮社応誉上人雲冏和尚の子孫。応誉は後に柳川藩祖の立花宗茂の正室である誾千代の菩提寺として良清寺を創建し、この子孫が蒲池家の名跡を再興することとなる。良清寺を預かる蒲池家は代々の住職を出し、また武家として立花氏柳川藩の家老格に遇された。鎮之は、先祖を同じくする窪田鎮勝(蒲池鎮克)が、柳川郊外の蒲池村にある蒲池氏の菩提寺である崇久寺を参った時、何度か面談している。 |