重泰の名は星野氏の系図には見い出せない。星野常陸介鎮康は、星野常陸介重泰のことと思われる。生葉郡妙見城主の星野常陸介重泰は大友氏に従わなかったため、大友義長は妙見山城を包囲したが、妙見山城は難攻不落でいたずらに日を重ねた。その後、大友義長の家臣竹尾新左衛門が偽って星野重泰に仕え、その信任を得てついに入浴中の重泰を殺害することに成功した。重泰の死によって妙見山城も落ち、義長は星野筑後守親実(系図に見えない)を妙見山城主とした。 大友氏は一族や譜代の家臣には所領を与えたが、国人領主とよばれる存在には総じて冷淡であった。また、合戦に際して、国人領主は先陣をつとめさせられ、大友氏の親衛部隊は後方にいることが常であった。いくら働いても所領は増えず、しかも命はいつも危険にさらされる。そのようなことが、ついに重泰をして大友氏に反旗を翻させたと考えられる。 大友氏への反抗を決めた重泰は、先祖のものが七代の間は謀叛を起こしませんと誓書を入れていたため、僧侶を呼んで葬式の真似事を七回したという。これから、「伯耆守の七葬式」という伝説が生まれた。いずれにしろ、重泰の謀叛は大友氏側にも問題があったのである。
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天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍と戦って討死したことで、島津氏の勢力はさらに拡大した。島津氏は大友氏の本国である豊後攻めを進め、対する大友宗麟は上洛して豊臣秀吉に救援を求めた。こうして、秀吉による九州征伐が開始されることになる。 天正14年、秀吉軍の先鋒毛利の兵が筑前に進出してきた。このとき、星野氏は島津氏の依頼を受けて、筑前粕屋郡の高鳥居城に入り、秀吉軍の侵攻に備えた。島津氏は秀吉方に与した大友氏の部将高橋紹運の拠る岩屋城を攻め落とすが、秀吉方の攻勢にあって兵を退けていった。ときに高橋紹運の実子で立花城を守っていた立花統虎(のち宗茂)は、島津軍を追撃して会心の勝利をえている。 島津軍の撤退をみた星野一族は秀吉の大軍を恐れて一戦も交えず退却することは武門の名折れであるとして籠城に決した。8月、立花統虎が高鳥居城に押し寄せてきた。星野勢は殺到してくる立花軍に向かって抗戦するも、やがて、立花方が城内に突入して、火を放ち、城中はたちまち烈風に煽られて火煙を噴き上げ、黒煙が城中を覆った。立花勢は風上に回って攻撃し、さらに毛利の援軍も二の丸に突撃をした。大将の星野鎮胤は東門を守っていたが、城兵を分断され立花勢に打ち取られた。一方、二の丸で防戦していた弟の鎮之も毛利軍に討たれ、城兵三百余もことごとく玉砕して落城し星野氏は滅亡した。 鎮胤には長虎丸と熊虎丸の二人の男子があり、幼児であったため一命を許されて龍造寺政家に預けられた。長虎丸は成人したのち親(鎮)之と名乗って佐賀鍋島家に仕え、弟の熊虎丸は松崎七兵衛を称して小城鍋島家に仕えたという。
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