<藤原氏>北家 閑院流

F553:三条実行  藤原公季 ― 藤原公実 ― 三条実行 ― 滋野井実国 F554:滋野井実国

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滋野井実国 滋野井公澄

 久安3年(1147年)、従五位下に叙爵。仁平2年(1152年)従五位上・左兵衛佐に叙任。同年中に正五位下に陞叙。
 久寿2年(1155年)、右近衛少将に任ぜられ、保元年間に従四位下から正四位下まで進む。右近衛中将,蔵人頭を歴任し、永暦元年(1160年)、但馬権守を経て参議に任ぜられ公卿に列す。播磨権守を経て、応保2年(1162年)従三位、長寛3年(1165年)権中納言に任ぜられる。左兵衛督,左衛門督などを歴任し、正二位・權大納言に至る。
 寿永元年(1182年)末の母の死を追うように寿永2年(1183年)正月2日に薨去した。享年44。
 笛・神楽に秀で高倉天皇の笛の師でもある。また歌人として永万2年(1166年)中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応2年(1170年)の建春門院北面歌合、治承2年(1178年)別雷社歌合などに出詠。嘉応2年(1170年)自邸で歌合を行った。家集に『実国集』がある。また、『千載和歌集』に入首している。

 天和元年(1681年)に滋野井実光の養子となる。貞享3年(1686年)に元服して従五位上侍従に叙せられる。貞享4年12月3日に養父が45歳で死去して家督を継ぐ。元禄元年(1688年)に公澄に改名。宝永元年(1704年)に参議に任じられ、翌年に従三位に叙せられる。同6年に霊元上皇の院評定衆に任じられて享保9年(1724年)まで務める。享保5年6月2日に権大納言に任じられる。享保9年(1724年)正二位に昇進する。享保16年(1731年)に出家するが、4年後に嫡男・実全が急逝したためにその遺児である公麗の養育にあたった。
 吉見和幸のもとで有職故実を学び、霊元院政のもとで東園基量,平松時方,野宮定基とともに「有職四天王」とも称された。また元禄3年(1690年)から享保6年の日記『公澄卿記』26巻や『羽林類葉抄』,『松蔭拾葉』,『簾中装束抄』などの著書がある。

滋野井公麗

 3歳で父が死去し、有職故実家としても名高かった祖父・公澄に育てられる。元文4年(1739年)に元服して従五位下侍従に任じられ、宝暦8年(1758年)に従三位参議となり、宝暦11年(1761年)に検非違使別当兼右兵衛督、宝暦13年(1763年)に正三位権中納言となる。明和5年(1768年)には正二位権大納言(兼大宰権帥)に昇ったが権大納言は同年中、兼務の権帥も安永5年(1776年)に退いた。
 祖父の学術を引き継いで当代屈指の有職故実の大家とされ、和歌や絵画にも優れていた。22歳で『狩衣至要鈔』を著した他、『禁秘御抄階梯』,『公事根源鈔階梯』,『諒闇装束之事』,『一上要覧』,『摂関要覧』,『彗星出現年々』,『滋草拾露』(個人全集)などの多くの書籍を著した。また、門人も多く、大塚嘉樹(蒼梧)などを育てた。
 その一方で自尊心も強かったとされ、従来は三条家の庶流とされてきた滋野井家こそが真の嫡流であり、家格を羽林家から清華家に引き上げるべきであると唱えて、強引なこじつけによる論争を起こして、関白近衛内前から叱責を受けている。
 天明元年(1781年)9月、青蓮院宮訪問の際に松茸として食したキノコを原因とする中毒によって急死した。墓所は京都市北区の天寧寺。同時代の公卿で歴史家としても知られていた柳原紀光は、訃報を聞いて日記に「彼卿無漢才、於抄物日記等事者、博覧之人也」と評している。