<藤原氏>北家 長良流

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高倉永季 高倉永家

 北朝にて蔵人,中務大輔,弾正大弼を歴任。有職故実に通じ、特に家職の衣紋道を受け継いで衣紋の調進を掌って、山科家と双璧をなした。衣紋道における功労により永和4年(1378年)従三位に叙せられ公卿に列した。
 のち、宮内卿,兵部卿を務める一方で、永徳3年(1383年)正三位、至徳4年(1387年)従二位と昇進している。明徳3年(1392年)2月に参議に任ぜられ、長良流としては中納言・藤原文範以来約400年ぶりに議政官となった。同年2月8日に出家、2月18日薨去。享年55。

 明応8年(1499年)叙爵し、永正元年(1504年)侍従に任官する。永正8年(1511年】右兵衛佐に遷ると、永正11年(1514年)従四位下、永正15年(1518年)従四位上・左兵衛督、大永2年(1522年)正四位下と兵衛府の武官を務めながら昇進する。
 大永8年(1528年)、従三位に昇って公卿に列し、天文2年(1533年)参議に任ぜらた。その後、天文4年(1535年)正三位,天文8年(1539年)従二位,天文9年(1540年)権中納言,天文13年(1544年)正二位と昇進を続ける。
 天文20年(1551年)より将軍・足利義輝による武家執奏が行われ、天文22年(1553年)には高倉家として初めて権大納言に昇った。
弘治3年(1557年)、出家。法名は常昭。天正6年(1578年)11月23日、薨去。享年83。 

高倉永相 高倉永孝

 天文7年(1538年)従五位下に叙爵し、翌天文8年(1539年)元服して、昇殿を許されて侍従に任官する。天文9年(1540年)右衛門佐に遷ると、天文17年(1548年)の従四位下叙位後も引き続きこれを務め、天文22年(1553年)正月に右衛門督に昇任された。
 同年8月に将軍・足利義藤に付き従い、京から近江に向かったが、三好長慶が「将軍に随伴する者は武家・公家に関わらず、知行を没収する」と通達したため、永相は義藤を見捨てて帰京した。
 永禄3年(1560年)、従三位に叙せられて公卿に列し、翌永禄4年(1561年)参議に任ぜられた。永禄11年(1568年)、武命に違えて摂津国大坂に下向するが、永禄13年(1570年)に京に戻って再び朝廷に出仕する。
 元亀4年(1573年)7月、将軍・足利義昭が織田信長に反旗を翻して挙兵するために宇治・槇島城へ遷ると、義昭の命令を受けて、永相は日野輝資らとともに二条御所を守るが、まもなく信長の軍に包囲され降伏した。
 天正4年(1577年)、従二位・権中納言に叙任されるが、天正7年(1580年)権中納言を辞任し、天正8年(1581年)正二位に叙せられる。天正13年(1586年)12月、重病に伏している中で権大納言に任ぜられるが、それから間もない12月23日に薨去。享年55。

 永禄11年(1568年)10月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、足利義栄派の公家は朝廷を追われ、永孝は父・永相と共に大坂寺内町へ下向した。
 天正4年(1576年)5月2日、父・永相やほかの公家とともに、妙覚寺に滞在中の織田信長のもとを訪れた。天正14年(1587年)12月24日、従三位となる。慶長12年(1607年)4月11日、死去。