文政元年(1818年)12月19日に従五位下に叙され、文政6年(1823年)9月23日に元服し従五位上に昇る。元服以前、永胤は仙洞御所の稚児であった。その頃、同じ仙洞の下臈であった下賀茂神社の社司の娘・乙女という女官(松下喬久の子の賀茂久子か)を妊娠させ、問題となったという。 文政9年(1826年)1月5日に正五位下となり、文政10年(1827年)8月29日に侍従に任ぜられる。文政12年(1829年)1月25日に従四位下,天保3年(1832年)1月5日に従四位上,天保6年(1835年)1月5日に正四位下となり、天保9年(1838年)1月21日に従三位に叙されて公卿に列する。天保13年(1842年)1月5日に正三位に昇る。弘化2年(1845年)2月15日、35歳で死去。
|
山城国京都で侍従・高倉永祜の長男として生まれ、慶応4年(1868年)父の死去に伴い家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 陸軍士官学校に入り、1888年(明治21年)7月28日、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第20連隊小隊長,同大隊副官,同中隊長,歩兵第39連隊大隊長,京都連隊区司令官などを歴任。1914年(大正3年)1月20日、歩兵大佐に昇進。1916年(大正5年)11月15日に待命となり、1917年(大正6年)4月1日、予備役に編入された。 1920年(大正9年)1月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。その他、大礼使典儀官,大喪使祭官,大礼事務嘱託(衣文奉仕)などを歴任。また、華族会館京都分館長,一徳会会長,小楠公会会長,大日本武徳会本部理事などを務めた。
|