<藤原氏>南家

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藤原範兼 藤原範光
 平安時代末期の公家。藤原能兼の長男。儒家の家に生まれ、学者として知られた。父・能兼が保延5年(1139年)に死去すると、残された10歳の弟・範季を引き取って養子とした。永万元年(1165年)に死去。残された幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が高倉天皇の第4皇子・尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母父となったことから、範兼の娘の範子,兼子らも乳母として親王に仕え、その即位ののちは権勢を振るった。土御門天皇は曾孫にあたる。

 幼くして父・範兼を失い、姉妹の範子,兼子と共に、父の弟で父の養子となっていた範季に引き取られ育てられる。
 長寛2年(1164年)、文章得業生となる。承安2年(1172年)、叙爵。紀伊守,下野守を経て、寿永2年(1183年)には紀伊守となる。建仁元年(1201年)従三位、建仁2年(1202年)参議、建仁3年(1203年)検非違使別当、権中納言。元久2年(1205年)民部卿、従二位となる。元久3年(1206年)東宮権大夫。建永2年(1207年)3月15日、出家。建暦3年(1213年)4月5日、薨去。享年60。 

藤原範子 藤原兼子

 平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官。刑部卿・藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇ったことで知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。通称は刑部卿局。子は他に源通光,源定通,源通方。
 父・範兼は範子ら子供達が幼いうちに死去したため、弟妹と共に叔父の藤原範季に養育された(範季は父範兼の養子になっているため義兄でもある)。平清盛の義弟にあたる能円と結婚して承安元年(1171年)に娘の在子が産まれる。治承4年(1180年)7月、高倉天皇の第4皇子尊成親王(のちの後鳥羽天皇)が生まれると、妹・兼子と共に乳母となり、親王の養育にあたった。
 寿永2年(1183年)7月、夫・能円は安徳天皇,平家一門と共に都を落ちた。都では安徳天皇に代わって新たな帝の選定が行われ、後白河法皇の選定により範子が乳母を務める尊成親王が擁立され、後鳥羽天皇となる。天皇の乳母となった範子に源通親が接近し、範子を妻に迎え、範子は文治3年(1187年)に通親の3男・通光を産んだ。
 かつての夫・能円は元暦2年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いまで平家一門と共に西走し、その後、捕虜となって文治5年(1189年)5月頃に帰洛するが、その時、範子は通親の子の3人目を懐妊している身であった。
 能円との間の娘・在子は通親の猶子となって宮廷に仕え、後鳥羽天皇の寵を受けて建久6年(1195年)11月、第1皇子為仁親王(のちの土御門天皇)を産んだ。建久9年(1198年)正月、3歳の土御門天皇が即位し、天皇の外祖父となった通親は権勢を振るった。
 正治2年(1200年)8月4日、死去。『愚管抄』によれば、通親は範子の死後に養女の在子と密通し、それがもとで後鳥羽天皇の在子への寵愛は失せ、範季の娘・重子への寵が深まったという。

 

 平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官。通称は卿局。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも。後鳥羽天皇の乳母。
 同じく後鳥羽天皇の乳母である藤原範子は姉。範子と前夫の娘・源在子は後鳥羽天皇の妃となり土御門天皇を産む。叔父の藤原範季は後白河法皇の院近臣で、後鳥羽天皇の養育にあたった。範季の娘・藤原重子は後鳥羽天皇の妃となり順徳天皇を産んでいる。
 父・範兼は永万元年(1165年)に死去し、兼子ら子供達は幼くして残されたため、叔父・範季に養育される。一門は後鳥羽天皇と関係が深く、兼子も乳母として仕えた。無名の女性であったが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、45歳で典侍となり、政治の表舞台に現れるようになる。独身であった兼子はこの頃に権中納言・藤原宗頼と結婚している。
 姉・範子の夫である源通親は後鳥羽天皇の外戚として権勢を振るった。弟の範光は低い官位ながら後鳥羽天皇の近習として重用され、その権勢は通親と並び称されるほどであった。通親が擁する土御門天皇より、守成親王(のちの順徳天皇)を後鳥羽上皇が寵愛したことから、順徳天皇を後見する兼子・範光姉弟と通親の間で対立も起こっている。
 建仁2年(1202年)、通親が死去し、後鳥羽上皇の独裁が強まると共に兼子・範光は側近としていっそう重用され、権勢を誇った。建仁3年(1203年)正月の除目について、『明月記』によれば、前年までは通親が実権を握っていたが、今年はすべて上皇の意志で行われ、通親に代わって権門女房(兼子)が取り仕切っていたという。
 夫・宗頼は結婚から3年後の建仁3年(1203年)正月に死去し、権勢を誇る兼子に通親の弟の源通資など複数の男が近づき、兼子は同年のうちに太政大臣・藤原頼実と再婚した。
 建保6年(1218年)正月、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した北条政子と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に押し、政子も実朝の妻・坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。
 承久元年(1219年)、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には西園寺公経の奔走により、摂関家の子息・藤原頼経が次期将軍として鎌倉へ下向した。2年後の承久3年(1221年)、幕府打倒の兵を挙げた後鳥羽上皇によって承久の乱が起こる。上皇は幕府軍に大敗し、倒幕側の中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となった。
 老年の兼子は都に留まり、乱後8年を生きながらえた。その間、延暦寺の僧と所領の事で争い、延暦寺によって京追放、所領没収の訴えを受けたり、倉に強盗が入って権勢の間に蓄えた財物を奪われ、警護の兵が殺害されるなど憂き目にあっている。
 寛喜元年(1229年)夏頃、頭部の腫瘍に苦しみ、それが元で8月16日に75歳で死去。残された財産は修明門院に遺贈された。