父・実範の跡を継いで紀伝道の研鑽に励み、文章生から対策に及第。 後冷泉天皇に蔵人右衛門尉として仕えたのち、後三条朝から白河朝初頭にかけて右衛門権佐(検非違使佐)を務める。承保2年(1075年)、備中権介に転じると、肥前権守,三河守,備前守,越後守と20年以上の長きに亘って地方官を歴任した。 一方で、白河院に近臣として仕え、鳥羽の別邸を院に献上。これを拡張し構築されたのが鳥羽殿であり、院政期には政治の中心機構となっている。 白河院政期中期の康和4年(1102年)以前に卒去。
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平安時代末期の廷臣,漢詩人。院政期に院近臣として権勢を得た信西(藤原通憲)の実父。 鳥羽天皇の即位前よりその傍らに仕え、康和5年(1103年)に東宮昇殿を許される。さらに同天皇の即位に伴い、天仁元年(1108年)に進士の時に蔵人に進む。若年時より博識を謳われ、『本朝無題詩』『朝野群載』『和漢兼作集』『擲金抄』『本朝小序集』などに漢詩・和歌が収録されている他、帥中納言・大江匡房の談話集である『江談抄』の筆録者であるともされている。 将来を嘱望されたが、天永3年(1112年)、28歳の若さで蔵人所において頓死。余りに急な死であったため、殺害説も流布された。これを受け、一子・通憲は高階経敏の養子となっている。
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