<藤原氏>南家

F048:伊東祐時  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 伊東祐時 ― 伊東祐堯 F049:伊東祐堯

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伊東祐堯 伊東祐国

 日向伊東氏5代当主。伊東祐立の子とされるが、一説には祐立に祐武という正嫡がいて、その子が祐堯とも言われる。男女合わせて25人の子に恵まれた。
 文安元年(1444年)、祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず曽井氏を宮崎城に攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川,穆佐,清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。
 日向国内に武威を示すと次に京都に働きかけて守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そこで康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。
 寛正2年(1461年)には再び京都に使者を送り、将軍・足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。
 島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明12年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。
 文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城の新納忠続を攻撃するため子の祐国とともに出陣中に清武城で死去。享年77。 

 父の祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫で島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。
 文明16年(1484年)には島津氏の内紛に介入した父の祐堯に命じられ新納忠続の飫肥城に侵攻、弟・祐邑と共に出陣。その時に率いた軍勢は、都於郡・佐土原・宮崎・木脇・八代・三納・穂北・富田・財部・高城・塩見・日知屋・門川・山陰・田代・神門・入下・宇納間・水清谷・銀鏡・小河・雄八重・中ノ俣・鵜戸・曾井・加江田と、現在の宮崎市・西都市・国富町・高鍋町・日向市・美郷町・西米良村などに相当する地域の兵であった。祐国,祐邑は国見峠を越えてたちまち飫肥城を包囲し、薩摩の援軍・島津伯耆守を討ち取り凱旋した。
 父の祐堯が清武城で病没したため、祐国は家督を継承することになる。
 文明17年(1485年)、再び島津氏の内紛に介入し、飫肥を討つべく大軍を率いて出陣するも、飫肥城主・新納忠続の守りは堅く、島津忠昌が軍を率いて救援に訪れると、祐国は島津久逸とともに楠原で忠昌と一戦したが乱軍の中に討ち死にした。享年35。 

伊東尹祐 伊東祐充

 文明17年(1485年)、父の祐国が島津忠昌(武久)と日向飫肥城で戦って戦死したため、その後を継いで当主となった。幼少であったため、しばらくは目立った行動は無かったが、成長した明応4年(1495年)に入ると、父の仇を討つために大軍を率いて自ら島津忠昌を攻めようとしたが、島津忠昌は彼の復讐を恐れて日向国三俣院1,000町の所領(三股一千町)を与えることで何とか和睦を取りまとめている。その後、永正元年(1504年)、都城に兵を進めたが、北郷数久がこれを撃退している。
 永正10年(1510年)には、福永氏娘との間に祐充が誕生したため、中村氏との間に生まれていた子の廃嫡を強引に実施し、家老の長倉若狭守,垂水但馬守と対立、綾の乱と呼ばれる混乱を招いた。事件は長倉若狭守,垂水但馬守の切腹で決着し、祐充が後継者となった。これ以前、美貌の福永氏娘をめぐり家臣の垂水又六と争い、強引に側室に迎えたという。
 島津氏や北郷氏との抗争をすすめ、日向南部の経略をたくましくし、その大半を版図に治めることに成功した。大永2年(1522年)には弟の祐梁と祐武を派遣し北郷氏の都城を攻撃させ、翌年には北原氏と同盟し北郷氏の支城である野々美谷城を攻撃し、落城させたものの、尹祐はその陣中にて没した。享年56。また、祐梁も一月後の12月10日に急逝してしまったため、城を放棄せざるを得なくなった。家督は子の祐充が継いだが幼かったため、外戚の福永祐炳ら福永一族が家中で専権を振るうようになった。 

 父・尹祐は晩年に北郷氏との抗争に没頭し、北原氏を味方につけ優位に立ち、ついに野々美谷城攻城戦に勝利したが、その直後に急死した。このことにより若年で家督を継いだ。叔父である伊東祐梁も直後に病死したため、外祖父の福永伊豆守を始めとする外戚福永氏が国政を牛耳るようになった。
 この頃の伊東氏は日向南部の経略をたくましくしており、都城を拠点とし、本家である島津氏と同盟し勢力の挽回を図る北郷氏との抗争は継続した。先代の尹祐の代に築いていた伊東氏の優勢は動かなかったものの、祐充は野々美谷城の割譲と北郷忠相の娘を娶ることを条件に北郷氏と和睦した。1528年には新納氏を攻撃した。
 伊東氏の兵威はこの祐充の時代に大いに盛んになったが、家中不安定であり、福永氏の専横に対し家臣の稲津重由による「若キ衆」内紛が勃発している。このような中、1531年、北郷氏は島津氏と北原氏を味方につけ伊東氏との抗争を再開し、三俣院高城で合戦し、伊東氏は大敗することになった。
 1533年に病没。直後に福永氏の専横を憎む伊東祐武による反乱が勃発し、福永氏一族は殺害されることになる(伊東武州の乱)。 

伊東義祐 伊東義賢

 天文2年(1533年)、伊東氏8代当主で兄の祐充が若死にすると、一門の伊東祐武(祐清の叔父)が乱を起こし、祐充や義祐の外祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を殺害、都於郡城を占拠してしまう。残された祐清,祐吉兄弟は政権の後ろ盾を失い、日向を立ち去って上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思いとどまり、財部に引き返して祐武方と対峙した。こうして家中を二つに分けた御家騒動となったが、知将・荒武三省の機転で祐武は切腹し、祐清,祐吉方は都於郡城を奪回した。
 乱の収束後、伊東氏の家督は長倉祐省の後援で弟の祐吉が継ぎ、祐清は出家を余儀なくされる。ところが3年で祐吉が病死したため、天文5年(1536年)還俗し佐土原城へ入ると10代を相続した。翌年、従四位下に叙せられ、3万疋を献上することで将軍・足利義晴の偏諱を賜り、以後「義祐」と名乗る。
 義祐は飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返した。その結果、大隅肝付氏と豊州家の領土を分け合う形で永禄12年(1569年)に飫肥を知行。こうして島津氏を政治的に圧倒し、日向国内に48の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げた。しかし、義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われていった。
 その後の島津氏との戦いでは、戦果を挙げられず、特に元亀3年(1572年)5月の木崎原の戦いでは、伊東側3000の軍勢がありながら、島津義弘率いる300の寡兵に大敗し、伊東祐安,伊東祐信ら5人の大将をはじめ落合兼置,米良重方など伊東家の名だたる武将の多くが討死してしまった。この大敗を契機として、義祐の勢力は次第に衰退し、寝返りする者も続出していく。天正5年(1577年)頃には、伊東家は北は土持、南と北西からは島津氏の侵攻を受けることになったのである。義祐は窮する事態に人心一新のため亡くなった義益の嫡男で嫡孫の義賢に家督を譲る。
 さらに家臣の寝返りは続き、12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれたが、もはや義祐に残された選択肢はなく、同日正午過ぎ、義祐は日向を捨て、次男・義益正室の阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼る決断を下したのである。
 本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行にも追撃の手が伸び、また過酷な険峻な山を猛吹雪の中 進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。その中には後に天正遣欧少年使節の一人である伊東マンショの幼い姿もあった。
 豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向をキリスト教国にする野望を抱き、天正6年(1578年)に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川以南で島津氏と激突(耳川の戦い)が、大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。その後、義祐は子の祐兵ら20余人を連れ(義賢は大友に残される)伊予国に渡って河野氏を頼り、河野通直の一族・大内栄運の知行地に匿われた。さらに天正10年(1582年)に義祐らは伊予国から播磨国に渡り、そこで祐兵は織田信長の家臣・羽柴秀吉に仕えていた同族の伊東長実の縁を得て、その斡旋で秀吉の扶持を受けるようになった。祐兵の仕官を見届けた義祐は、天正12年(1584年)祐兵の付けた供の黒木宗右衛門尉と共に中国地方を気儘に流浪し、やがて周防国山口に至って旧臣宅に滞在した。その後は黒木を撒いて独りで旅をしていたが、病に侵され祐兵の屋敷のある堺へ向かった。しかし便船の中で病衰し、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれた。偶然にもそれを知った祐兵の従者(祐兵夫人らとの説も)に発見され、堺の屋敷で7日余り看病を受けたものの甲斐無く死去した。享年73。 

 父・義益が永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・伊東義祐の手によって養育された。天正5年(1577年)8月に正式に家督相続するが、幼少のため実権は祖父・義祐の元にあった。同年、伊東氏は没落し日向国から逃亡、母の縁者である大友氏に助けられ、その保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンになり、天正10年(1582年)に受洗した。天正15年(1587年)、九州征伐の後、叔父・伊東祐兵が飫肥城に復帰すると帰参した。
 文禄の役で伊東勢の一人として朝鮮に出兵するも病気となり、文禄2年(1593年)帰国途中船上で死去した。享年27。史料上では病死とされるが、伊東祐兵との家督争いを防ぐために暗殺されたという説もある。墓所は壱岐島の長徳寺、また飫肥の伊東家墓所内にも墓がある。

伊東祐勝 伊東祐松

 父・義益が永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・伊東義祐によって養育された。天正5年(1577年)に伊東氏が没落すると母の縁者である大友氏の保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンとなり「ジェロニモ」の洗礼名をもらう。また安土のセミナリオに留学し、天正遣欧少年使節の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された。
 天正15年(1587年)、豊臣氏による九州の役後、叔父・伊東祐兵が飫肥城に復帰すると帰参した。文禄の役では、朝鮮に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ石見国まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した。享年24。なお、兄・義賢と前後して死去していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたとする説もある。 

 伊東氏の家臣。天文2年(1533年)、8代当主・伊東祐充の死後に叔父の伊東祐武が反乱を起こしたときは、従兄弟の伊東祐清(伊東義祐)擁立派として働いた(武州の乱)。9代当主・伊東祐吉の死後に義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。
 元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東氏が大敗したときは、孫の祐信が戦死、同年には飫肥城において伊東祐兵の後見役となっていた子の祐梁も死去した。
 天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって、伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったといわれる。
 伊東氏の衰退期には、米良矩重や落合兼朝など祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後国に退去。翌天正6年(1578年)に日向国の三城で死去した。 

伊東祐益

 伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だった伊東マンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後に落ち延びる。豊後に暮らしていたときにキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)はキリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考え、セミナリヨで学んでいた4人の少年たちに白羽の矢を立てた。伊東マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。事実、彼は「大友宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子」という遠縁の関係にあった。本当は義益の息子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は安土にいて出発に間にあわないため、マンショが代役となったという。その選考基準は容姿端麗であり、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。
 天正18年(1590年)、日本に戻ってきた彼らは翌年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたマンショはそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会。
 慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ,原マルティノ,中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。
 マンショは小倉を拠点に活動していたが、慶長16年(1611年)に領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移った。長崎のコレジオで教えていたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死。ヨーロッパ帰国から22年目であった。
 なお、大友宗麟の名代として選ばれたと一般に知られているが、ローマ教皇などに宛てられた宗麟の書状の花押から書状は偽作である可能性が高く、実際には宗麟は少年団派遣を関知していなかった可能性が高いとの指摘もある。