F048:伊東祐時 | 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 伊東祐時 ― 伊東祐堯 | F049:伊東祐堯 |
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伊東祐堯 | 伊東祐国 |
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日向伊東氏5代当主。伊東祐立の子とされるが、一説には祐立に祐武という正嫡がいて、その子が祐堯とも言われる。男女合わせて25人の子に恵まれた。 |
父の祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫で島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。 |
伊東尹祐 | 伊東祐充 |
文明17年(1485年)、父の祐国が島津忠昌(武久)と日向飫肥城で戦って戦死したため、その後を継いで当主となった。幼少であったため、しばらくは目立った行動は無かったが、成長した明応4年(1495年)に入ると、父の仇を討つために大軍を率いて自ら島津忠昌を攻めようとしたが、島津忠昌は彼の復讐を恐れて日向国三俣院1,000町の所領(三股一千町)を与えることで何とか和睦を取りまとめている。その後、永正元年(1504年)、都城に兵を進めたが、北郷数久がこれを撃退している。 |
父・尹祐は晩年に北郷氏との抗争に没頭し、北原氏を味方につけ優位に立ち、ついに野々美谷城攻城戦に勝利したが、その直後に急死した。このことにより若年で家督を継いだ。叔父である伊東祐梁も直後に病死したため、外祖父の福永伊豆守を始めとする外戚福永氏が国政を牛耳るようになった。 |
伊東義祐 | 伊東義賢 |
天文2年(1533年)、伊東氏8代当主で兄の祐充が若死にすると、一門の伊東祐武(祐清の叔父)が乱を起こし、祐充や義祐の外祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を殺害、都於郡城を占拠してしまう。残された祐清,祐吉兄弟は政権の後ろ盾を失い、日向を立ち去って上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思いとどまり、財部に引き返して祐武方と対峙した。こうして家中を二つに分けた御家騒動となったが、知将・荒武三省の機転で祐武は切腹し、祐清,祐吉方は都於郡城を奪回した。 |
父・義益が永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・伊東義祐の手によって養育された。天正5年(1577年)8月に正式に家督相続するが、幼少のため実権は祖父・義祐の元にあった。同年、伊東氏は没落し日向国から逃亡、母の縁者である大友氏に助けられ、その保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンになり、天正10年(1582年)に受洗した。天正15年(1587年)、九州征伐の後、叔父・伊東祐兵が飫肥城に復帰すると帰参した。 |
伊東祐勝 | 伊東祐松 |
父・義益が永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・伊東義祐によって養育された。天正5年(1577年)に伊東氏が没落すると母の縁者である大友氏の保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンとなり「ジェロニモ」の洗礼名をもらう。また安土のセミナリオに留学し、天正遣欧少年使節の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された。 |
伊東氏の家臣。天文2年(1533年)、8代当主・伊東祐充の死後に叔父の伊東祐武が反乱を起こしたときは、従兄弟の伊東祐清(伊東義祐)擁立派として働いた(武州の乱)。9代当主・伊東祐吉の死後に義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。 |
伊東祐益 | |
伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だった伊東マンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後に落ち延びる。豊後に暮らしていたときにキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)はキリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考え、セミナリヨで学んでいた4人の少年たちに白羽の矢を立てた。伊東マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。事実、彼は「大友宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子」という遠縁の関係にあった。本当は義益の息子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は安土にいて出発に間にあわないため、マンショが代役となったという。その選考基準は容姿端麗であり、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。 |