<藤原氏>南家

F047:伊東祐継  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 伊東祐時 F048:伊東祐時

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伊東祐時 伊東祐安

 幼名は犬房丸。建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちで父・工藤祐経が討たれる。父を討った曾我時致は助命の動きもあったが、犬房丸が泣いて訴えたことにより、時致の身柄は祐経の一族に引き渡されて処刑された。その後、幕府御家人として仕える。
 承久3年(1221年)6月の承久の乱では幕府方の東海道軍に加わる。安貞元年(1227年)、御所内裏焼失の際、将軍御使として上洛した。嘉禎元年(1235年)、従五位上検非違使左衛門尉,大和守に任じられた。
 建長4年(1252年)、68歳で没。

 1378年、氏祐(祐重)の死去に伴い家督を相続。伊東本宗家は祖父の伊東祐持の時代に足利尊氏に日向の所領への下向を命じられていたが、祐安は都於郡城を拠点に国富庄,諸県庄,穆佐院など周辺の掌握に取り組み、日向国における地歩を固めた。
 九州探題の今川貞世(了俊)の支援の下、日向守護の獲得を目指したが果たせず、了俊の勢力が日向から退去した後、討伐の危機をまぬがれた日向守護・島津元久が穆佐院に侵入。これが伊東・島津両氏の本格的な抗争の始まりとなる。この頃、島津元久は子の久豊と対立しており、数度の合戦を経て伊東氏の領域は拡大した。
 一方、伊豆における伊東本宗家の所領は、祖父の伊東祐持の時代に弟の祐藤に預けられていたが、父の祐重の時代には既に祐藤により横領されていた。祐安はこれを取り戻そうと、1393年に書類を用意して訴訟を起こしたが、当時の京都は南北朝合一をめぐる繁劇多忙のさなかで判決は得られず、その後、伊東庄は数代を経て幕府に召し上げられ、石堂氏に宛がわれたという。こうして日向に下向した伊東本宗家と伊東庄との関わりは完全に断たれた。
 1434年に病没。享年不詳。

伊東祐武

 祐安に従って日向国守護の島津氏の度重なる攻勢に対抗した。応永20年(1413年)には曽井城の戦いで薩軍の樺山教宗,北郷知久を破る。
 応永32年(1425年)に島津久豊が没すと、守護を継承した島津忠国と親交を結ぶため鹿児島に渡る。ところが接待の席で毒殺されそうになり、主膳役の密告によって脱出した。
 応永34年(1427年)、家督を相続。永享6年(1434年)に祐安が死去すると、またしても島津氏の攻撃を受けるが、土持氏の同心で辛うじて防戦し、和睦に至った。これにて島津氏の脅威は一旦終わり、伊東氏は約50年間に渡る勢力拡大期に入った。
 文安元年(1444年)、上洛途中の播磨国疣河の渡しで落馬して死去。享年58。子の祐堯が跡を継いだが、系図の混乱もありはっきりしない。