<藤原氏>南家

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伊東祐兵 伊東祐慶

 伊東氏12代当主、日向国飫肥藩初代藩主。永禄11年(1568年)から飫肥城に入り、島津氏と戦う。しかし天正5年(1577年)に、福永祐友,米良矩重らの謀反に呼応した島津の侵攻によって父・義祐が佐土原を追われると、祐兵は父とともに同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟を頼りに豊後国に逃れた。これにより、日向国は島津氏の一円支配に入った。
 かつて伊東家に世話になった山伏三峯が、播磨国姫路にて伊東掃部助(伊東長実か)という羽柴秀吉の黄母衣衆の一人に出会ったことがきっかけとなって、羽柴秀吉の家臣となった。祐兵は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、恩賞として「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として宛てがわれた後、天正15年(1587年)の九州征伐で道案内役を務めた功績により、旧領のうち清武・曾井に2万8,000石を与えられて大名として復帰した。翌年、かつての本拠である飫肥を与えられ、3万6000石に加増された。その後、朝鮮出兵にも参陣した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は大坂にいた。しかし重病の床に伏していたために自身は出陣せず、密かに嫡男・祐慶を領国へ送って軍備を整え、さらに黒田孝高を頼って徳川家康に通じた。領国では家老・稲津重政らが陣頭指揮を執り、高橋元種の属城である宮崎城を攻撃した。高橋氏が東軍に寝返ったため、宮崎城は返還させられたが、東軍への味方は認められ、戦後、徳川家康から所領を安堵された。しかし、同年のうちに病死した。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、家臣の稲津重政の進言を受け、西軍の高橋元種の宮崎城に軍勢を派遣し落城させた。しかしこれと前後するように元種は東軍に寝返っていたため、宮崎城は返却された。徳川家康より所領を安堵された。なお、祐慶は後日、責任を取らせる形で清武城にて稲津重政を討っている。
 同年、父・祐兵が大坂にて病死したため、家督を継いだ。元和年間より領内にスギの植林事業を興し、藩財政の基礎とした。
寛永13年(1636年)48歳で死去した。跡を長男・祐久が継いだ。

伊東祐実 伊東祐鐘

 伊東祐久の4男として誕生。兄で4代藩主の祐由に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。寛文元年(1661年)、兄・祐由の死去によって家督を継いだ。
 窮乏の色が見え始めた藩財政を再建するため、積極的な内治政策に取り組もうとしたが、寛文2年(1662年)に大地震・大津波が領内を襲って大被害を受け、さらに薩摩藩と領土の境界をめぐって争うなど、治世は多難を極めた。それでも飫肥城の改築,油津堀川運河の開削,植林事業の奨励,甘藷の食糧自給化,郷士制度の確立,薩摩藩に対する牛の峠境界論争の勝訴,境界確定などに尽力している。
 嗣子が無かったため、分家で表向御礼衆交代寄合の兄・祐春の長男・祐崇を最初は養嗣子としたが、病弱だったために廃嫡し、伊東左門祐信の長男・祐永に祐崇の娘を嫁がせて養嗣子とした。正徳4年(1714年)に祐永に家督を譲って隠居し、享保8年(1723年)9月18日、80歳で死去した。

 江戸にて生まれ、天明元年(1781年)、父の死去により跡を継いだ。藩政改革に着手し、「杉方部一法」という山林・植林制度を確立した。天明の大飢饉による農民救済と財政再建のため、寛政元年、植木方の石那田実右衛門により大規模な植林が行われ、その収益を救民に充てた。寛政10年(1798年)2月14日、27歳の若さで死去し、跡を長男・祐民が継いだ。
伊東祐相 伊東祐豊

 江戸に生まれる。父の祐民は文化9年(1812年)6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父にあたる祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳でその跡を継いだ。
 藩政においては殖産興業政策,軍制改革,海防のための砲台建設,養蚕業の奨励や運輸業の改革,飫肥藩教学の確立などに努め、多くの成功を収めた。後にこの教学により郷校・明教堂が建設され、阿万豊蔵,落合双石など多くの人材を輩出している。明治期に入ると薩摩藩に従って新政府側に与し、戊辰戦争では二条城と甲府城の守備を務めた。
 明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となったが、同年7月23日に長男・祐帰に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)10月21日、63歳で死去した。

 日向国飫肥藩主家伊東家分家の祐豊系旗本伊東家初代。徳川家光の側近の1人で、小姓などを勤める。また、最初の正室は保科正之の義妹にあたる。
 元和9年(1623年)、二条城において将軍徳川秀忠に初めて御目見えを済ませた。寛永3年(1626年)に徳川家光付となり、家光の上洛に従った。寛永6年(1629年)に小姓となり蔵米2000俵を与えられ、同年12月(1630年)に従五位下・主膳正に叙任されて諸大夫となった。寛永9年(1632年)の家光の日光山参詣に供奉した。
 寛永4年(1627年)より実家の飫肥藩と薩摩藩との間で境界論争が発生していたが、寛永10年(1633年)、現地を視察した幕府の巡検使が飫肥藩の主張を支持した。薩摩藩は領域南西部の牛の峠付近について飫肥藩の主張を認めたものの、北東部の北河内付近については納得せず、引き続き論争が継続されることになった。
 寛永11年(1634年)の家光の上洛に供奉した。寛永13年(1636年)に父が死去すると、兄の祐久より南方村2000石,松永村1000石の合計3000石を分知された。また、同年に書院番士となり、のちに中奥に勤めた。慶安元年(1648年)に徳川家康三十三回忌のために日光山に赴いた。
 慶安4年(1651年)に辞職し小普請となった。同年に将軍家光が死去している。
 寛文8年(1668年)に死去。享年57。墓所は麻布の春桃院で後に代々の葬地となった。跡は4男の祐賢が継いだ。

伊東祐賢

 『伊東志摩守日記』により、伊東志摩守として知られ、徳川綱吉の小姓,中奥小姓を勤める。
 祐豊の4男として出まれ、母は原氏とされるが、父は正室に内藤政長の娘,継室に朝倉宣正の娘。継々室に三宅康盛の娘を迎えている。4男かつ庶子であったが、兄たちが早世したこともあり、寛文6年(1666年)に父が死去すると同年12月10日(1669年1月12日)に3歳で父の家督と家禄の知行3000石および蔵米2000俵を継ぐ。
 延宝3年(1675年)に徳川家綱に初御目見えを済ませる。貞享元年10月晦日(1684年12月6日)に父同様に小姓に就任し、貞享4年12月18日(1688年1月20日)に従五位下・志摩守に叙任される。元禄2年4月2日(1689年5月20日)に家禄のうち知行3000石を蔵米に改める。これにより、家禄は全て蔵米となり、知行地の日向国南方村と松永村は天領となる。また同年4月27日(1689年6月14日)に小姓を免じられ、元禄5年(1692年)に小姓に復す。元禄6年4月23日(1693年5月27日)に中奥小姓に転じ、同年11月14日(1693年12月10日)に中奥小姓を退いて寄合となる。
 元禄10年7月26日(1697年9月12日)に荻原重秀主導で行われた元禄地方直により、蔵米5000石を近江国栗太郡,甲賀郡,野洲郡,滋賀郡のうち5000石に改められる。
 宝永5年(1708年)死去。墓所は代々の葬地である麻布の春桃院。跡は祐詮が継いだ。