F049:伊東祐堯 | 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 伊東祐時 ― 伊東祐堯 ― 伊東祐兵 | F050:伊東祐兵 | ● |
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伊東祐兵 | 伊東祐慶 |
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伊東氏12代当主、日向国飫肥藩初代藩主。永禄11年(1568年)から飫肥城に入り、島津氏と戦う。しかし天正5年(1577年)に、福永祐友,米良矩重らの謀反に呼応した島津の侵攻によって父・義祐が佐土原を追われると、祐兵は父とともに同行する。米良山中から高千穂へ抜け、大友宗麟を頼りに豊後国に逃れた。これにより、日向国は島津氏の一円支配に入った。 |
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、家臣の稲津重政の進言を受け、西軍の高橋元種の宮崎城に軍勢を派遣し落城させた。しかしこれと前後するように元種は東軍に寝返っていたため、宮崎城は返却された。徳川家康より所領を安堵された。なお、祐慶は後日、責任を取らせる形で清武城にて稲津重政を討っている。 |
伊東祐実 | 伊東祐鐘 |
伊東祐久の4男として誕生。兄で4代藩主の祐由に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。寛文元年(1661年)、兄・祐由の死去によって家督を継いだ。 |
江戸にて生まれ、天明元年(1781年)、父の死去により跡を継いだ。藩政改革に着手し、「杉方部一法」という山林・植林制度を確立した。天明の大飢饉による農民救済と財政再建のため、寛政元年、植木方の石那田実右衛門により大規模な植林が行われ、その収益を救民に充てた。寛政10年(1798年)2月14日、27歳の若さで死去し、跡を長男・祐民が継いだ。 |
伊東祐相 | 伊東祐豊 |
江戸に生まれる。父の祐民は文化9年(1812年)6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父にあたる祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳でその跡を継いだ。 |
日向国飫肥藩主家伊東家分家の祐豊系旗本伊東家初代。徳川家光の側近の1人で、小姓などを勤める。また、最初の正室は保科正之の義妹にあたる。 |
伊東祐賢 | |
『伊東志摩守日記』により、伊東志摩守として知られ、徳川綱吉の小姓,中奥小姓を勤める。 |