若子宿禰の3世孫の志波勝足尼(宿禰)は、反正天皇から江沼国(のちの加賀国江沼郡)の国造に任命されたと伝わる。
古墳時代の越国の豪族。姓は臣。 『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇31年4月(570年)に越国の江渟臣裙代が京にやってきて、郡司(国造)の道君が高句麗の使人が浦津へ漂流してきたことを隠匿していると訴えた。道君は自分が「大王」と偽って調を詐取していた。 天皇は、高句麗の使節を迎え、5月に膳臣傾子を越に派遣して饗応し、取り立てた調を探索して、高句麗の使人らの元へ返している。なお、背景には裙代と道君の地盤をめぐる争いがあったものと思われる。