| AW02:荒尾公見/宗顕 | 在原業平 ― 荒尾公見/宗顕 ― 荒尾善次 | AW03:荒尾善次 |


| リンク | {G606}{G616}{F515} |
| 荒尾善次 | 善応院 |
|---|---|
|
織田氏の家臣で姫路藩初代藩主となった池田輝政の外祖父にあたる。 |
いつごろかは不明であるが、織田信長の異母兄弟である織田信時の室となる。このとき七条(飯尾敏成正室、のちの下間頼龍正室)をもうけた。その後、信時が自害した際に信長の命により池田恒興と再婚し、恒興の正室となった。 |
| 荒尾成房 | 荒尾成利 |
|
元亀3年(1572年)、兄・善久が三方ヶ原の戦いで戦死したため、その家督を相続した。天正3年(1575年)、長篠の戦いに出陣する。後に姉・善応院が嫁いだ池田恒興に仕え、若森城と3000貫の知行を賜る。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで恒興が戦死した後は、その跡を継いだ輝政に仕えた。天正18年(1590年)、輝政が三河吉田城主となると、牛久保城代となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、輝政が播磨姫路52万石の領主となると、龍野城代となり1万石の知行を賜る。寛永2年(1625年)、隠居して嫡男・成利に家督を譲り、隠居料として3000石を賜る。寛永7年(1630年)、死去。 |
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、主君・池田忠継に従い出陣し、大和田攻略では右手の大将を務め武名を上げた。寛永2年(1625年)、父・成房の隠居により家督を相続する。寛永7年(1630年)に成房の死去によりその隠居料も相続し、知行1万3000石となる。 |
| 荒尾成重 | 荒尾成倫 |
|
明暦元年(1655年)、3歳で父・成直の幕府への証人(人質)として江戸に下向する。寛文9年(1670年)12月に兄・成氏が24歳で早世し、寛文10年(1671年)5月に成直の継嗣と定められる。延宝2年(1674年)4月、玄蕃と改名する。 |
元禄5年(1692年)6月7日、父・成重の死去により、9歳で家督相続が認められ、米子領主となる。幼いため叔父の荒尾成紹が後見を命じられた。同月27日、叔父・成紹,池田知定,鵜殿長春,大叔父・利純と共に登城し、藩主・池田綱清に拝謁して家督相続の御礼言上を行う。家老として藩主・池田吉泰に仕える。 |
| 荒尾成熙 | 荒尾成尚 |
|
寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄・荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主・池田重寛の将軍・徳川家重への初御目見の際、共に登城し拝謁を賜る。 |
天明7年(1787年)9月、成熙の死去により家督相続し、米子城代となる。寛政元年(1793年)3月、幕府巡見使(石尾七郎兵衛,花房佐五郎,小浜平太夫)が米子を通過することなり、米子入りしてその供応にあたった。 |
| 荒尾成緒 | 藤井徳昭 |
|
文政元年(1818年)8月、父の隠居により家督相続し、米子城代となる。文政2年(1819年)8月、初めて米子入りして1ヶ月あまり滞在した。米子入りの行列は壮麗を極め、その評判は鳥取城下にまで聞こえた。特に、行列の所持する弓が、国主・城主にのみ許された「白藤巻の御弓」であったことは人々を驚かせ、着座筆頭荒尾家の藩内での権勢を示す出来事であった。 |
藤井 紋太夫の通称でも知られる。旗本・荒尾久成の4男で、水戸徳川家に仕える親戚の老女・藤井の養子となり、2代藩主・徳川光圀に小姓として仕える。以後、光圀に重用され、延宝6年(1678年)に小姓頭、天和元年(1681年)に中老、貞享4年(1687年)に大番頭と累進する。光圀の隠居後も、3代藩主・綱條に引き続き仕えて、元禄6年(1694年)には禄高800石の大老となる。ところが、元禄7年11月23日(1695年1月8日)、小石川水戸藩邸で行われた能会において、光圀に刺殺された。 |
| 荒尾嵩就 | 荒尾秀就 |
|
文禄元年(1592年)、池田家家老・荒尾成房の次男として三河国吉田に生まれる。叔父・荒尾隆重の養子となる。慶長19年(1614年)、大坂の陣に養父・隆重に従い出陣する。元和3年(1617年)、家督相続する。 |
寛文2年(1662年)、父・嵩就の隠居により兄の宣就が家督相続すると、その養子となり藩主・池田光仲に御目見する。天和3年(1683年)5月、宣就の死去により家督相続し、倉吉荒尾家当主となる。 |
| 荒尾勝就 | 荒尾甫就 |
|
宝永5年(1708年)、戸田忠時の次男で西福釜松平家を継いだ旗本・松平隆欽の子として江戸にて誕生。始め、倉吉荒尾家の分家・荒尾重就の養子として家督を相続し、荒尾式部修就と名乗る。享保11年(1726年)4月、本家・荒尾秀就の嫡男・豊就が27歳で早世し、同年8月、秀就の養子として迎えられ、主計と改名する。同年9月、部屋住みのまま1500石を賜る。 |
宝永5年(1708年)、旗本・永井尚附の3男として江戸に生まれる。享保17年(1732年)11月、倉吉荒尾分家、荒尾仙就の養子となり遺跡を相続する。同年12月、藩主池田吉泰に初めて拝謁する。 |
| 荒尾斯就 | 荒尾為就 |
|
正徳4年(1714年)、旗本・佐々長元の次男として江戸に生まれる。元文元年(1736年)、荒尾仙就の遺跡を相続し、倉吉荒尾分家当主となる。元文2年(1737年)12月、御職家老となる。 |
明和8年(1771年)、鳥取藩家老・荒尾厚就の子として生まれる。天明6年(1786年)12月、父の死去により家督と知行1万1000石を相続し、倉吉領主となる。家老として池田治道から池田慶徳まで7代の藩主に仕えた。 |